1788 〈1977年日記 35〉

1977年8月12日(火)

エリカがアメリカに戻った。

パンナム002便の出航は3時15分の予定だが、15分遅れで出発。

私はまだいろいろと仕事がある。
5時15分。「アラスカ」に寄って原稿を書く。なんとか仕上げたので、「ジャ-マン・ベ-カリ-」に行く。ここで、「世界文化社」の編集者と打合せ。「公明新聞」の編集者に原稿をわたす。
下沢君と「実業之日本」に行く。峯島さんが、「夕月」に案内してくれた。
翻訳もののシリ-ズを始めるまで、ずいぶん時間がかかったが、ようやく社長の内諾が出たという。

 

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1977年8月15日(金)

8月15日なので、敗戦当日のことを思い出す。

朝、「共同通信」から、エルヴィス・プレスリ-の死を知らせてきた。コメントをもとめられたので答える。

プレスリ-が、初めて登場した(56年)とき、私は反発したひとり。
戦後のポップスに大きな影響をあたえたのは、ビング・クロスビ-、フランク・シナトラ、つづいてエルヴィス・プレスリ-、やがてビ-トルズだった。ごく平凡な見取り図だが、エルヴィス・プレスリ-には、はじめから忌避したいものがあった。
マイクをにぎりしめて、セクシ-に骨盤を動かす「ペルヴィス・スタイル」が気に入らなかった。
「ハ-トブレイク・ホテル」、「監獄ロック」、「ラヴ・ミ-・テンダ-」、「テディ・ベア-」、「ブル-・スウェ-ド・シュ-ズ」。どれも感心しなかった。

エルヴィスの映画は、「GIブル-ス」、「ブル-・ハワイ」、「燃える平原児」など、30本もあるのだが、私は数本見ただけで、映画評を書いたこともなかった。シングル盤やLPも一枚ももっていなかった。
ようするに、まったく無縁のまま過ごしてきたのだった。

(私が、後年、ハンタ-・ディヴィスの「ビ-トルズ」を訳したのも、エルヴィス・プレスリ-に対する挽歌という意味もあった(ような気がする。)(後記)

その私が評価を変えたのは、晩年の「エルヴィス・プレスリ-・オン・ステ-ジ」と「オン・トゥア-」を見て、あらためてこのシンガ-の円熟を知ったからだった。
私は、周回遅れのファンといっていい。
私が見たエルヴィスは、肥満体質に悩み、無理な食事制限や、大量の薬物投与に苦しみながら、自分の音楽をひたすら追求してきた芸術家の姿だった。

エルヴィスは42歳の若さで亡くなった、という。あまりにも若い死だった。

私は、おのれの不明を恥じてはいないが、エルヴィスが亡くなったことは、アメリカのポップスにとってとりかえしのつかない悲劇と見る。

プレスリ-の死がつたえられたとき、グレイスランド・マンション前の、プレスリ-・ブ-ルヴァ-ドは人並みで埋めつくされたという。葬儀が行われた18日は、徹夜した350人をふくめて5000人が邸宅をとり囲んだ。葬儀には、ジョン・ウェイン、バ-ト・レナルズ、アン・マ-グレット、サミ-・デイヴィス・ジュニアなども参列した。
墓地は、フォレスト・ヒルズだが、今後、ファンの巡礼が予想されるので、独立した墓地に埋葬しなおすとか。

「DAB DAB」の編集部から、電話でアンケ-ト。これもエルヴイスの死について。

 

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1977年8月19日(火)

「ジャ-マン・ベ-カリ-」で、井上 篤夫、大村 美根子、本戸 淳子の三人に会う。「実業之日本」、峯島さんに会ったが、ここにきて、まだ、社としての方針が固まっていないふしが見えた。
大村、本戸のふたりを、有楽町のゲ-ム・センタ-に案内する。ふたりとも、こんな場所で遊んだこともないだろう。
神田に出て「いぬ居」でスキヤキ。

 

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1977年8月23日(土)

1時、「ゆかいな仲間」の試写をみるために、「ガスホ-ル」に行った。
「ガスホ-ル」でも、私はいつも右側の10列目あたりにすわるのだが、この日はどういうものか、中央の席にすわった。
映画が始まる前に、黒人の女性が婉然たる微笑をたたえて、私の席に寄ってきた。何があるのだろうか。その女性は、なんと私にワインのボトルをわたした。
これまで、映画の試写に行って、何かをもらったことはない。その映画の宣材をもらったことはある。大型のパンフレットとか、その映画の題名のついたTシャツといったものばかりで、ワインをもらったことはない。
どうして、私を選んで、ワインをわたしてくれたのか。
あとで知ったのだが、この女性は、南アフリカ共和国の観光省の女性とか。最近の南アフリカ共和国は、観光に熱心になっているらしい。
たまたま、昨日だったか、南アフリカ共和国が原爆実験を開始する決定をしたという。フランスの外相が、世界に向けて、警告を発した。
ワインから、世界情勢を連想する。

これが、私なのである。