1977年8月9日(日)
今回は参加する気はなかった。なにしろ、原稿がたまっているので、この数日、かかりっきりだった。歯痛。
北アルプス縦走は、安東 つとむが計画したプランだったが、最後になって鈴木君が、参加を断念した。訓練不足、経験不足が理由だった。しかも、吉沢君が足を傷めているので、参加できるかどうか。ナンなら、オレが行ってやろうか、と声をかけてやる。これが、きっかけだった。
それから、原稿をつぎつぎに片付けはじめた。
「ミレイユ」続編の校正は、上野の駅の構内で赤を入れた。約束の時間ぎりぎりに石本がきてくれたので、「二見」に届けてもらうことにした。
プラットフォ-ムを走った。やっと飛び乗ったとき、みんなが歓声をあげた。
すべり込み、セ-フ。
「先生は時間に間に会わなくても、きっとあとからひとりで登ってくる、と思っていました」
という。
メンバ-は――安東夫妻、吉沢 正英、工藤 淳子、石井 秀明、はじめて参加した甲谷君。今回は、「中田チ-ム」の最強のメンバ-。
すぐに眠ることにした。睡眠不足なので。
早朝。富山から立山線で、有峰口。
ここからバスで折立まで。
さすがに登山者が多い。
私は、車中で、よく眠れなかったため、ひょっとすると、おもしろくない山行になるかも知れない、と覚悟をきめた。セ-タ-は着ない。
風はない。空いっぱいに雲がよどんでいる。やや薄ぐろい雲、灰色、白っぽい雲。だいたいそんな雲ばかりだが、色合いによって、何種類にも分けられそうだった。つまり、お天気の変化によって私たちの行動にどう影響するか。
はるか彼方に帯状にながく伸びた薄ぐろい雲があり、白っぽい雲が細長い切れめを挟んで接続している。その切れ目から、光が落ちている。山は、光を受けた部分だけが輝き、あとは薄茶色になってひろがっている。
息をのむほど美しい。
せめて、少しでも晴れてくれればいいのだが。
折立ヒュッテから、ひたすら5時間。長い長い高原状の尾根を登って行く。睡眠不足なので、かなりきついものになった。
太郎平小屋に着いたとたんに、雨になった。
やっぱり降ってきやがった。しかし、これも計算しておいたから、ま、いいか。
キャンプ地に移って、テントを張る。
こういうときは、テントにもぐってもあまり話ははずまない。地図をひろげて、明日のコ-スを調べる。
翌日、4時、起床。
食事(おじや)を作ったが、意外に手間どったため6時に出発。
風が出なければいいのだが。
しかし、歩きだしてすぐに、風とまじって雨が降りしぶく。セ-タ-にアノラックを着ているけれど、手袋の下のわずかな素肌が冷えてくる。登山靴の爪先からも、雨の冷たさが這いあがってくる。わるいことに、歯痛がおきた。
唇をかみしめながら歩く。唇は血の色を失っているだろう。
北ノ俣岳に。
歯痛は薄れた。しかし、どうも、発熱したらしい。
歩きつづけているうちに、風はやんだ。いったん風が吹きはじめると、あたりの大気が大きな固まりのまま、すさまじい響きをあげながら、大移動をはじめる。こういうときは、石が地上高く舞い上がり、地面にしがみついている植物をちりじりにもぎとって、いつ果てるともなく吹き荒れる。
登山者は必死に風をさけようとするが、あらぬことばかり、頭をかすめる。こんな山に登るんじゃなかった。天気を読み違えたのか。退却したほうがよかったのか。しかし、どこに逃げるんだ? 地上めがけて矢のように突き刺さってくる風は、そんな考えを吹きとばす。いったん吹き出すと、いつまでも吹きやまない。
赤木から黒部五郎にさしかかったとき、頭痛がはじまった。黒部五郎から先、まだまだ長い長いコ-スがつづく。考えるだけで、ひるんだ。つらい登山になったなあ。さりとて、もはや引き返すわけにはいかない。距離的に、体力的に、戻るわけにはいかない。
小屋に入ったとき、頭痛がひどかった。お天気は回復したから、登山にはもってこいの日だった。しかし、ひとりで登山したら、とても先に行く気は起きなかったにちがいない。やむをえない。クスリを飲もう。アスピリン、エフェドリン、フェナセチンの配合剤で、万一のことを考えて、半分だけ服用する。
予想では、登山者はたいした数ではないはずだった。ところが、小屋は満員で、一人用のふとんに2人が抱き合って寝るような状態だった。
翌日(8日)、私の体調は回復していた。クスリが効いたのか。からだが山になれてきた。
昨日のことがウソにおもえるほど、空が晴れている。雨はもう降らない。
とりどりの姿をした雲がながれて行く。
山脈がただ青く見えた。その向こうに、ナマリ色の雲がびっしりとならんでいた。
どこから湧いてくるのか、あとからあとから流れてくるのだった。
私たちの頭上をゆっくり流れて行く。
山の頂上から少し下のあたりを通ってゆく。コ-スは、東の空にゆっくりと消えて行くのだった。
黒部乗越から三俣蓮華に向かう。
今日は素晴らしい日になる、と確信した。みんなが、うきうきした気分になっている。
あたりの風景までが変わって見える。チングルマやシナノキンバイなどの群生が美しい。ほかのパ-ティ-を追い抜いてゆく。
三俣蓮華から双六に向かったとき、ほかの大部分のパ-ティ-は雪渓の下のカ-ルに下りて行った。
私たちは、頂上をめざしている。
途中で、甲谷君に雪渓の雪をカップにとってもらって、ユデアズキのカンヅメをまぜてたべたが、これがほんとうにおいしかった。みんなにもわけてやる。ただし、同時に、クレオソ-トも飲ませたが。
双六に着いたのが11時40分。ここで小休止。ほかのパ-ティ-のいくつかは大ノマから帰るために出発して行った。
残念ながら、私もここから帰途につくことにした。自分ひとり戦線を離脱するような気がして、みんなと別れることは伏せていた。このまま、登山をつづけたいとも思った。しかし、週刊誌の連載があるので、今夜じゅうに半分は書いておかなければならない。
「先生が帰るのは残念だなあ」
安東がいった。
「ごめんよ。どうしても、明日、1本わたさなきゃいけないんだ」
私は空を見た。南東に大きな笠雲が出ていた。
「今夜は、また雨になるぞ。気をつけてくれ」
私はいった。
12時10分。私は、安東たちと別れて、ひとり、新穂高に向かった。
大ノマ乗越で、先行のパ-ティ-に追いついた。
このパ-ティ-の若いリ-ダ-が、私を見て、軽蔑したような顔をした。かるいザックを背負っただけで、北アルプスにハイキングにきた中年と見たらしい。私は自分の登山スタイルが他人にどう見られても気にならない。
奥多摩や、関東の山を登っていた頃、よく営林署の方ですか、と聞かれたことがある。
ここで食事をしたが、10分後に、大ノマ乗越に出た。伊藤新道である。この道は、石の急な斜面になっているので、前に出発したパ-ティ-にすぐに追いついた。こちらが崖の上に立って先行のパ-ティ-を眺めていると、リ-ダ-が、先にというサインを出したので、私は、みんなが見ている前で先を急いだ。こういう場合、いちばん警戒しなけれはならないのは、石を踏んだとき、その振動が原因で、落石を起こさないようにじゅうぶん注意することだった。私は、石をつたって走ったが、まったく石が動かなかった。
日頃、奥多摩の川のりや、高見石から塞ノ河原あたりのガケを何度も駆け下りているので、この程度ならなんでもない。あっという間に下りた。私の前に、若者の2人が下山していて、私はそれを追うかたちになった。この2人もすばらしいスピ-ドだった。
秩父沢に出た。岩を一つ越すと、思いがけず、若い男女がパッと離れた。小休止していたらしい。ただし、その場の空気は想像できた。
ワサビ平に着いたあと、新穂高まで単調な下りがつづく。
4時間半のコ-スを、3時間で下りたことになる。しかし、高山行きのバスは、5時の最終しかない。これに乗っても、高山で泊まるか、美濃太田までしか行けない。
思案しているところに民宿の男が寄ってきた。
民宿「奥穂」。場所は、新平湯温泉だった。ポン引きのようなオジサンが経営している。目がギョロギョロして、なにやら気味がわるいが、実際は好人物だった。
この民宿「奥穂」に泊まったのは、どこかの山岳部のパ-ティ-、4人だった。
夜は雨になった。安東たちはどうしているだろうか。
(北アルプスは、荒れ模様になった。)