はじめてローマに行ったとき、バッグのカウンターにいたのは私ひとりだった。バッグが出てきた。すると、どこからともなく税関の役人が出てきた。いかにも人のよさそうな中年のオジサンで、やたらに明るい。パスボートを見せた。
私の顔を見て、旅行の目的を訊く。観光と答えた。ローマにきたきみは賢明だね。私は、フィレンツェに行くつもりである。彼はニヤッとしてみせた。
職業は? 大学講師。何を教えているのか? 文学。彼はニヤッとしてみせた。イタリアの文学は世界最高である。私はニヤッとしてみせた。
それだけだった。バッグの中身を調べずに白いチョークで、小さな輪を描くと、通過させてくれた。所要時間、30秒。
いくら楽な業務にしても、イタリアの簡単な入国手続きに驚いた。
イタリアののんびりした気風は、どこに行ってもおなじだった。私はまだイタリアのルネサンスの勉強をはじめてはいなかったが、イタリアに関心をもつようになったのはこのときからだった。
まだ、ハイジャックも、航空機によるテロもなかった時代。