はるかな過去の、それも1本か2本の映画に出ただけのスタ-レットを思い出す。
それは、現実に経験した男女の愛とおなじで、たまゆらのいのちの極みにいたる高揚と、そのあとの凋落、あるいは下降といったプロセスがつづく。しかし、そのスタ-レットを思い出す。それも、どうかすると、思いがけないかたちでよみがえってくる。
たとえば、「ベティ・ブル-」。
ジャン・ジャック・ベネックスの「ベテイ・ブル-/愛と激情の日々」に主演したベアトリス・ダル。
「ベティ・ブル-」は、このはげしくも切ない愛の物語のヒロインだった。海辺のバンガロ-で出会った男に、ただひたすら愛をささげる若い女。しかも、「ヌ-ベル・バ-グ」の女優にふさわしく強烈な個性の輝きを見せていた。
当時(1987年)、ベアトリス・ダルは、20歳。パリで、<パンク>として生きていたが、ある写真家と知り合いモデルになった。
たまたま、映画監督になったばかりのジャン・ジャック・ベネックスが、その写真をみた。
映画監督はベアトリスのカリスマティックな魅力に惹かれた。
「ふつうの人が苦心して身につける演技を、生まれながら身につけている。逆にいえば、カメラの前で何もしなくても、ベアトリスの魅力がふきあがってくる。」
映画監督の直観通り、ベアトリスは、情熱的で、しかもみずからの情熱に傷ついて、最後に破滅にいたる悲劇的な「女」を演じた。
「60代まで女優をつづけても、「ベティ・ブル-」ほどすばらしい役を演じるチャンスは二度とないでしょう。「彼女」は私にそっくり。希望も要求も多すぎて、自分でも抑えられない女。私自身は、撮影中に結婚したけれど、「ベティ1740」の心情は手にとるように理解できるような気がします。」
だが、ベアトリスは消えてしまった。
ブリジット・バルド-が登場したあと、フランスのヌ-ベル・バ-グに、さまざまな個性(つまりは、美)をもった女優たちがつきつぎにエクランを飾った。
クロ-ド・シャブロルが「二重の鍵」で起用したベルナデット・ラフォン。「いとこ同志」で登場させたジュリエット・メニエル。
エドワ-ル・モリナロの「殺(や)られる」に出たエステラ・ブラン。
「赤と青のブル-ス」のマリ-・ラフォレ。
ゴダ-ルの「恋人のいる時間」のマ-シャ・メリル。
なぜ、1本か2本の映画に出ただけのスタ-レットを忘れないのか。
私の内面にこの美少女たちへの妄執めいた思いが重なっているだけではない。
もうひとつ、1本か2本の映画に出ただけで消えて行った美少女たちに対する哀惜の思いがあった。
私の映画批評には、いつもそんな思いがひそんでいたのかも知れない。