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オペラの歌姫、フリッツィ・シェッフのことを書いたことがある。
「フリッツィ・シェッフ」を書いた当時、私は『ルイ・ジュヴェ』という評伝を書きはじめていた。完成まで10年もかかった仕事だが、途中はまったく先が見えない状態で、悪戦苦闘を続けていた。

私のコレクションで、もっとも古いものは、1904年のジェラルディン・ファーラーや、1905年のエマ・イームズ、1906年のアデリナ・パッティなどがある。
1910年代のアメリタ・ガリ・クルチや、若き日のロッテ・レーマン、あるいはメルバでさえCDになっている。

私は書いたのだった。
「1903年に『メトロポリタン』をしりぞいたフリッツィには、録音する機会は一度もなかったと思われる」と。当時、ネリー・メルバが彗星のようにあらわれ、ローザ・ポンセルや、ガリ・クルチが輝きをましている時期に、すでに流星のように飛び去ったスターのレコ-ドが出るはずもなかった。
当時の制作状況から考えてフリッツィのレコードが作られた可能性はほとんどない。私は、そういう歌姫の非運を思って、フリッツィの時代の、オペラ、オペレッタという芸術の衰退という偶然と個性的なシンガーの運命を重ねて、短い評伝めいたものを書いたのだった。

プルースト、ヴァレリーよりも八歳下。イサドラ・ダンカンよりも一歳年下。演出家のジャック・コポオと同年。ルイ・ジュヴェより八歳上。
フリッツィのデビューは、1897年のフランクフルト。

世紀末のミュンヘン。つまりはシュニッツラー、若き日のツヴァイク、クリムト、やがてエゴン・シーレ。さらには、これも画家を志しながら貧窮に苦しみ、自分を認めようとしない世間とユダヤ人に憎悪を抱いて彷徨していた無名の青年、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン。
フリッツィは10代でウィーン、ミュンヘンきっての「女神」として君臨する。

1901年に「メトロポリタン」に登場した。デビューは「フィデリオ」の「マルツェリン」。「メトロポリタン」での彼女のヒットは『ラ・ボエーム』の「ミュゼッタ」だった。「メトロポリタン」に登場したア-ティストとしては、1903年にエンリコ・カルーソー、1907年にマーラー、1908年にシャリアピンがいる。フリッツィは天性の美貌と、絶大な器量にめぐまれた「女神」のひとりだった。

1903年4月22日のコンサートで、『連隊の娘』第一幕の「マリー」を歌っているが、これが「メトロポリタン」での最後の公演になった。

 

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