澁澤さんのエッセイから、一昔前の万世橋、昌平橋界隈を思い出した。
もう誰も知らない昔話。
このあたり、昔はスジカエと呼ばれていた。筋違と書く。江戸っ子のまき舌では、スジカイになる。筋違橋(スジカイはし)、筋違御門(スジカエごもん)のあった土地で、このあたりは神田見附。原っパが広がっていて、八小路原(ハチこうじはら)、八辻の原(ヤツつじのハラ)と呼ばれていた。
すぐ先に須田町、秋葉原(あきバッパラ)がひろがっている。
今は、もう秋葉原(あきはばら)の電気街、あるいは、AV、ポルノ専門のビルなどが建っている。
昔は、ここを起点にして、日本橋、内神田、小川町、柳原土手、外神田、下谷、湯島、本郷など、それぞれに道が通じていた。おそらく、徳川政権の戦略上の要衝だったと思われる。
こんな川柳がある。
須田町で見れば なるほど筋違(スジカイ)だ
筋違(スジカエ)を出ると左に 直ぐな道
それぞれの道が、筋違橋に対して斜めにむすばれていたので、スジカイと呼ばれたらしい。今でも、地下鉄の「お茶の水」まで、ゆるやかな坂になっているが、壕割りの南側(これも名前が消えてしまったが、江戸では紅梅町という)には忍者屋敷が連なっていた。
ただし、後ろの句には別な含意があるので、注意しよう。
神田川から昌平橋か筋違御門を通ればすぐに八辻ノ原だが、この界隈は盛り場で、酒や料理を出す茶店、屋台が並んでいた。当然、辻講釈、祭文語り、砂絵といった大道芸人が集まるし、今のAKB48の遠い先祖のような綺麗どころがしゃなりしゃなりと歩いていた。うっかり読むと気がつかないが――「左にまっ直ぐな道」は、かなり意味シンなのである。
明治6年、筋違御門の石垣を利用して、あたらしい橋がかけられた。これは、明治天皇の東京(当時は、トウケイと発音されたらしい)遷都後の世情安泰を願って、万代(ヨロズヨ)橋と命名された。
万世橋とかわったのは、天皇を「万世一系」とする国民感情と無縁ではない。
この橋は、石のア-チが二つつながっていた。片方が「太鼓橋」、もう片方が「メガネ橋」と呼ばれた。
明治39年に、神田川の上流に鉄橋がかけられて、石橋は姿を消す。昌平橋は、明治6年の洪水で流失し、この39年にようやく再建された。
おかしな話だが、私は中学生のときから「戦後」にかけてほとんどを神田で過ごしてきた。それこそ古代史の化石のような人間なので、このあたりのたたずまいはまだ記憶にとどめている。
JRのお茶の水駅の東口、昌平橋から、神田川にかかる地下鉄の線路を見下ろすと、もう誰も知らない江戸の風景がわずかに見えてくるような気がするのだった。
寒月や 我ひとり行く 橋の音 太 祇
(私の歳時記・6)