1695 私のキャサリン・マクフィー論【9】


【9】

「ヒステリア」、全12曲。

最初聞いたときは驚いたが、もう1度聞き直して、あらためてキャサリンの志向が見えてくるようだった。

表題の「ヒステリア」は、熱帯のタムタムのようなドラム、明るいメキシカン・リズムなのに、ひどく暗い感じ、空虚さ、不吉な感じがある。あきらかにキャサリンの内面を物語っているのだが、それにしても「SMASH」の「カレン」とはなんという違いだろう。(作詞はイザベラ・サマーズとキャサリンの合作)。オープニングから「Insane」というフレーズがくり返される。

キャサリンは自分の内面にきざしている「狂気」をさらけだす。
それが何なのか、私にはわからない。しかし、自分でもどうしようもない、なにか特殊な考えや観念にとり憑かれて、それが創作につながるのは、すぐれた芸術家においてはめずらしいことではない。しかし、ポップスの世界で、これほど率直に「狂気」を訴える例があったろうか。
キャサリンは、そこまで自分を追いつめている。と同時に、その苦しみかたは、ポップスという表現形式のなかでは、ドラマティックなほど誇張されている。
最初の3曲、「ヒステリア」、「羽」、「燃える」は、キャサリンの美しい声、のびやかなファルセット、そして緩急自在なバイブレーション。狂躁。
ほとんど熱狂的な感じで、強迫的(コンパルシヴ)に流れる緊張と不安。
キャサリンが、ラテンリズムにつよい関心をもっていたとしても意外ではないが、この「ヒステリア」で、ラテン・テイスト、とくに強烈なメキシコのリズムをトップにもってきたのは意外だった。

「羽」もラテン系、リズミックで、人生はもっとベターなのに、といいながら、どこかたよりない。「燃える」は、自分は「燃えつきない」といいながら、歌の途中で、モノローグめいたウィスパーで「囚われの女」といった状況が挿入され、しかも遠雷のサウンドトラックが不安をかきたてる。

この3曲でキャサリンは、われからヒステリー状態に自分を追いつめている、乃至は、ヒステリーに逃げ込んでいる、そんな印象をもったのは私だけだろうか。キャサリンの天分の豊かさは大いに認めるけれど、この3曲には、キャサリン自身の疑いや、苦しみ、ためらい、不安が潜在しているような気がした。

キャサリンは、このアルバムでみずからの危機を表現している。そのことにおいて、ほとんど比類のない芸術家なのだと私は考える。
たとえば、八代 亜紀が「涙酒」でヒットを出したあと、しばらく停滞をつづけた。あるいは、藤 圭子の悲劇もまた、みずからの危機とその破綻の例だろう。

私はキャサリンもまた、おなじような危機をむかえているような気がする。

キャサリンは「SMASH」で歌ったバラード、アップテンポのトーン、あえかなリリシズムを「ヒステリア」では徹底的に排除している。それは、このアルバム、「ヒステリア」にかけたアーティストとしての自負、ないしは見識と見ていい。
これほど徹底的に「SMASH」のイメージを消そうとしている姿勢には、どうしてもオブセッシヴなものを感じてしまう。このこだわりは、やはり「SMASH」の「カレン・カートライト」の全否定というべきだろう。
キャサリンは、「SMASH」で、「カレン・カートライト」という女優、ミュ-ジカル・スタ-の役を演じた。そして、決定的に成功した。
ふつうなら、新作のアルバムの「音楽性」に、「カレン」的なバラードをとり入れても不思議ではない。ところが、これまでの、キャサリンの「キャサリンらしさ」をかなぐり捨ててまで、あらたな表現に立ち向かおうとする。これほど徹底的に「カレン」的な「音楽性」を峻拒するのは、それこそヒステリックな自己否定と見ていい。
私は、それを不自然なまでにヒステリックではないか、と見る。

ここまで、(いわば赤裸々に)自分の不安や、いらだち、焦躁感、あるいは抑鬱感をさらけ出すというのは、アーティストとしてめずらしいほどの強迫(コンパルシヴネス)で自分を追いつめているからではないか。
おそらく、キャサリンは深く傷ついているのだ。

このアルバムには、そうした二律背反めいたあやうさがある。1723