1687  私のキャサリン・マクフィー論【1】


【1】

最近の私はキャサリン・マクフィーのファンである。
キャサリン・マクフィーといっても、ほとんど知られていない。これからも、あまり知られることはないだろう。だからこそ、私はこの女優の熱心なファンであることを隠さない。

キャサリン・マクフィーのアルバム、「ヒステリア」を聞いた。
ただし、昨年発表されたものなので、ニュ-ズとしては新しいものではない。あまり評判になったわけでもない。
このアルバムを聞いた私は胸を打たれた。というより、私の内面にひそんでいたおびただしい疑問が、堰を切ったようにあふれ出してきた。

つい一昨年までのキャリア-はほとんど順風満帆とみえた女優が、その後、このアルバムを発表するまでどれほどの試練に耐えていたのか。どういう思いで、自分の成功と挫折を乗り越えてきたのか。あたらしい飛躍をめざしながら、どうしてこんな奇妙なタイトルを選んだのか。

女優としていつも前向きで、果敢なヴァイタリティ-にあふれているキャサリン・マクフィーは、どんなにむずかしい状況に直面しても、けっしてめげずにひたすら困難に立ちむかって行くだろう。そう思いながらも、挫折のあとで、こんな奇妙なタイトルをもったアルバムを、あえて発表したキャサリンにファンとしては驚かされたのだった。

私がこのアルバムに聞いたものは――いまや三十路に達した女優、キャサリンの芸術家としての成長と、ア-ティストとしての成功と挫折にまつわる孤独な思いだった。
そうはいっても、わずか一枚のCDをとりあげて、シンガ-の資質、その微妙な変化や可能性を冷静に、いわば客観的に見つめ、このアルバムの魅力と、芸術家が直面している危機的なぎりぎりの状況を分析するのはむずかしい。
それよりもむしろ、熱心なファンとして、なぜ、このシンガー、女優さんに入れ込んでいるのか、そのあたりを書きとめておくことができれば、それはそれで批評が成立するのではないだろうか。