私の少年時代。ラジオの普及やレコードの登場が重なってくる。
ポップスのレコード化が初めて企画されたのは、宝塚少女歌劇の「モン・パリ」(コロンビア/1927年=昭和2年)。私が、おぼえたのは、おそらく10年後だろう。
翌年(昭和3年)野口 雨情作詞、中山 晋平作曲の「波浮の港」(ヴィクター/昭和3年)が出た。これもおぼえている。多分、ずっと後年、ラジオを聞いておぼえたにちがいない。このレコードが我が家にあったことをおぼえている。
藤原 義江の「出船の港」(時雨 音羽作詞、中山 晋平作曲=昭和2年)も大ヒットしている。
この時期、浅草を中心に、「小原節」、「佐渡おけさ」、「串本節」、「草津節」が流行する。こちらのほうは、浅草の寄席、ちいさな演芸場の記憶と重なりあってくる。なにしろ、浅草まで、子どもの足で、10分もかからなかった。
私は1927年(昭和2年)の生まれ。この年、堀内 敬三が、浅草の歌劇でジャズの訳詞をはじめる。(子どもの私が知るはずもない。戦後になってから調べた。)
堀内 敬三訳の「ヴァレンシア」(昭和2年)は、ラテン・ミュージック。
ヴァレンシア あたいは南の国からきたのよ
ヴァレンシア レモンの花咲く国からきたのよ
ヴァレンシア あたいは浮気な娘じゃないわよ
だから お金や力だけじゃ 口説かれやしないわ
おなじく「アラビアの唄」(昭和2年)は、
砂漠に日が落ちて 夜となる頃
恋人よ なつかしの 歌を歌おうよ
あのさびしい 調べに 今日も涙を流そう
恋人よ アラビアの歌を 歌おうよ
「私の青空」(昭和3年)は、
夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて たどるは 我が家の細道
狭いながらも 楽しい 我が家
愛の日影の さすところ
恋しい家こそ 私の青空
幼い頃の私は、そんなメロディーを聞いて育った。
「君恋し」(時雨 音羽作詞、佐々木 紅華作曲=昭和4年)や、「東京行進曲」(西条 八十作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)が、当時としては空前のヒットになる。
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりや ダンサーのなみだ雨
原作は菊地 寛のロマンス小説だが、歌は映画化された「東京行進曲」の主題歌。佐藤千夜子がレコードで歌っている。
この「東京行進曲」のB面が、「紅屋の娘」(野口 雨情作詞、中山 晋平作曲=昭和4年)だった。
私は、こうした感傷的な流行歌のメロディーを聞いて育った。歌詞も自然におぼえたのだろう。
一方、流行歌として、「ヨサホイノホイ節」が、民衆の暗部の潜流に綿々としてつたえられていた。隅田川を挟んで浅草のすぐ先、本所に住んでいたから、無意識にせよ、こうした歌謡曲、俗曲の影響を受けたらしい。
今日もコロッケ 明日もコロッケ
これじゃ年がら年じゅうコロッケ
アハハハ アハハハ こりゃ おかし
この作者は、益田 太郎冠者(たろうかじゃ)。(戦後、思いがけないことに、この人からハガキをいただいたことがある。)
そして、ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ。
これは、添田 唖蝉坊。
2016年、老作家の内面に、もう誰もおぼえていない、いろいろな唄の「ちゃりもんく」が、こびりついている。こびりついているだけならいいが、何かのきっかけでヒョイッと口をついて出てくる。こういうのも、老いのくりごとというのかねえ。
こんな歌をおぼえているのもいまいましいが、それこそ「ラメチャンタラ ギッチョンチョン の パイのパイのパイ」で、ボケも極まれり、「オヤオヤ、まったく こいつは困ったね」(「困ったねぶし」大正13年)。(笑)
