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井原 西鶴を読もうと思った。
もっとしげしげ読みつづけるべき作家、深く知るべき作家と思いながら、そうではなかった。もともと、私などの読めるはずもない作家なのである。
いまさらながら、おのれの無知、無学を嘆くばかりだが、たとえば、こんな例がある。

    こと問はん 阿蘭陀広き 都鳥
      六町一里につもる 白雪
    袖紙羽 松の下道 時雨きく
      雲行も 今朝かはる 駕籠賃
    月人や ことにすくれて ふとるらん
      くはれて残る 小男鹿のかは
    秋よりは かならずひゆるを 存候
      本末のいろは あけてかな文

せっかく読みはじめたが、最初からつまづいた。西翁、西夕、西鶴の三百韻、「三鉄輪」の表八句。
西鶴が関西俳諧を代表する談林の巨匠だった程度のことしか知らないのだから、わかるはずもない。おのれの不勉強を思い知らされた。
初句、「言問」「都鳥」の連想はわかったが、「阿蘭陀広き」がわからない。仕方がないので、西鶴関係の本を当たってみた。

「大矢数」の跋を、若い人たちに読みやすいかたちで引用する。

予 俳諧正風 初道に入て 二十五年、昼夜 心をつくし、過つる中 春末の九
日に夢を覚し侍(はべ)る。
今 世界の俳風 詞(ことば)を替(かえ) 品を付(つけ) 様々流義 有と
いへども、元ひとつにして 更に替ることなし。
総て此道さかんになり、東西南北に弘(ひろま)る事、自由にもとづく俳諧の姿を 我仕はじめし以来なり。世上に隠れもなき事、今又申(す)も愚(おろか)也。

私なりになんとか解釈してみよう。

私(西鶴)は、オーソドックスな俳句の修行にはいって、25年、ひたすら勉強を重ねて過ごしてきたが、今年の3月末に、ふと、正夢を見たような気もちになった。
現在、俳句の世界では、いろいろな俳人たちが、言葉を工夫したり、それぞれの作風を追って、いろいろな流派が登場してきたが、俳句の基本は一つであって、じつは何も変わってはいないのだ。
もともと俳句がさかんになって日本国内の各地にひろがってきたのも、私がこれまでの俳句のありようを打ち破ってからのこと。これは誰でもしっていることだから、いまさら論じるのも野暮なことである。

西鶴の強烈な自信というか、おのれを恃む姿勢がわかる。今の私(中田 耕治)は、「自由」ということばがこういうふうに使われていることに驚いた。
これで西鶴の自信はわかったが、作家、西鶴の作品がわかったわけではない。

「三鉄輪」の序文に、

阿蘭陀といへる俳諧は、其(その)姿すぐれてけだかく、心ふかく、詞 新らしく、よき所を今 世間に是(これ)を聞覚えて、たとへば唐にしきに ふんどしを結(ゆ)ひ、相撲といはずに 甚句に聞え侍るは、一作一座の興にありやなしや。

オランダという俳句は、句自体が気韻があって、内容は深く、新鮮なことばで詠まれるもので、その美点を、今の時代のひとびとが記憶するようになる。たとえば、贅沢な仕立ての褌をつけている力士から、すぐに相撲を連想するのではなく、相撲甚句を踏まえる、そういう作りの俳句が、句会の人々に関心を喚びさますものではないか。(中田訳)

一般論としてはよくわかる。「阿蘭陀」というのは、他の流派が談林俳諧を異端と見なしていることの反論で、当時の西鶴の作風は邪道と見られたらしい、とわかった。
むしろ、西鶴の作風は時流とあいいれず、「阿蘭陀流」などという批評を受けたのだろう。
世間の俳句好きは――「貞門の俳諧もいいが、もう少し突っ込んで詠まないとどうも趣きがない。そこへ行くと、さすがに西鶴ってなあ、どれをとってもビリリとくるところがある。しかし、欲には、もう少し手綺麗に詠めねえものかねえ」などとヌカしたに違いない。ただし、西鶴はそんな批評をいっこう気にしなかった。

    お江戸 京 大阪 堺 長崎まで     由平
      作意ひろむる 當流の波       西鶴

さすがに西鶴らしい堂々たる自負であった。
いまさら勉強しても追いつくはずもないのだが、知らないことがわかっただけでもうれしかった。