ある日、街角で。
私は買い物、といっても、コーヒーのパック、キャラメル程度だが、店の外に出て少し歩いたとき、前方からきた老人が足をとめた。
「あんたの帽子、よく似合っているねえ」
そんなことをいう。
「有り難う」
いつも毛糸で編んだキャップをかぶっている。誰も不思議に思わない。作家で、おなじようなキャップをかぶっていたのは、大作家の江戸川 乱歩。別に真似をしたわけではない。同年代では、田中 小実昌。ただし、コミさんは、私とちがって白いキャップだった
。
このオジサンが褒めてくれたのだから、何かいわなければ、と思って、
「おいくつになりました」
破顔一笑した。
「先輩にはかないません。72ですよ」
どこで会ったオジサンだろうか。会った記憶はない。しかし、私が自分より高齢であると心得て「先輩」と呼んでくれたものらしい。残念なことに、私の住んでいる千葉市には、親しい友人、後輩がいない。親しくしていた恒松 恭助さん、福岡 徹さん、後輩の竹内 紀吉君、みなさん、他界してしまった。
このオジサンは、自分より高齢の相手に対して、親しみをもって声をかけてくれたのか。あるいは、たんなる挨拶か、老人に対する儀礼的なアドレス(呼びかけ)に過ぎないのか。次のセリフが、これまた意外なものだった。
「お米は、三分ですよ。味噌汁は、タマネギ。はい。長ネギではなくタマネギ。これがいいんです」
私は、このオジサンの明るい口調に翻弄された。オジサンは、自分が健康に留意していることを私につたえたかったに違いない。まったく面識のない相手に、自分の健康を誇らしげに語っている。
「失礼ですか、お名前は?」
オジサンの返事がまた意外なものだった。
「英語でいえば、MASAHIRO XXXです」
私は笑いそうになった。わざわざ英語でいわなくてもいいのに。しかも、英語でも何でもない。このオジさん、少しばかりボケているのだろうか。あるいはトボケているのか。
昼間からいっぱいきこしめした気配でもない。つぎに出てきたのは英語だった。
「ハーイ・ミスター、ユー・アー・グレート」
私は手をさしのべて、
「シー・ユー・アゲイン」
すっかりうれしくなったらしいオジサンは、私の手を握って、
「サンキュー・サンキュー」
そう くり返して、そのまま歩み去って行った。
まるで、初期のサローヤンの短編に出てきそうなオジサンだった。
私はそれからしばらく楽しかった。それだけの話である。