しばらく前に、BSで、「ベルリンの壁の崩壊」というドキュメンタリを見た。
今の若い人たちには興味もないことだろうが――「冷戦」時代のベルリンは、ドイツがソヴィエトとアメリカ側連合国の占領下に置かれた。したがって、東西ブロックの対立の接点だった。
ベルリンがソヴィエト側に組み込まれる直前までに、東から西に脱出したドイツ人は、じつに400万人におよぶ。
1961年、東ドイツは、市民の脱出を阻止するために「壁」を作った。この夏、東から西に脱出しようとして、おびただしい難民がシュプレー川を泳いでわたった。途中で、東ドイツの人民警察に発見されて、射殺された人も多い。
私の見たドキュメンタリは――当時、東ドイツの秘密警察、「シュタージ」のトップ、No.2だった女性、カトリン・イェレクというオバサマを中心に、ベルリンの壁の歴史を見せてくれた。
そのなかに「シュタージ」の秘密訓練所が出てくる。むろん、今は見るかげもなく荒れ果てた「つわものどもの夢のあと」になっている。壁も崩れかけ、フロアも荒れているが、ここでたえず尋問、拷問、はては処刑が行われていたに違いない。
だが、カトリンは、ここでかつての東ドイツが、国家としてどんなに輝いていたかを語った。
私は、きわめて成績優秀だった女性が、「シュタージ」内部でさまざまな勲功をあげて、ついにNo.2の地位に立ちながら、突然、その「壁」が無残に崩壊してゆくのを見つめなければならなかったときのことを想像した。
それこそ、雲の上から地上にたたきつけられたような思いだったにちがいない。
だが、同時に私は思い出していた。この「壁」ができたとき、作家のギュンター・グラースが、東ドイツの作家、アンナ・ゼーガースに対して公開状を書いたことを。
おなじように、作家のワルザーや、エンツェンスベルガーたちが、「8月13日は政治的事件であるとともに、戦後ドイツ文学史の日付になるだろう」と書いたことも。
このドキュメンタリを見ながら、私の心にいろいろな思いがかすめた。
もはや遠い歴史のなかに埋没してしまったが、共産主義国家だった東ドイツに、広範な範囲と規模で民主化運動が起きて、民衆が雪崩をうってハンガリー経由で「西側」に脱出しはじめた日のこと。これに呼応して、ベルリン市民が、ベルリンの壁を突破しようとした。「シュタージ」は、このとき何人の人を射殺したのか。
私は、ほんの数日、ベルリンに滞在したことがあるのだが、このテレビ・ドキュメントを見ていて――ポイント・チャーリーの入国管理官をつとめていた東ドイツの若い女性を思い出した。東ベルリンの市民たちは、ほとんどがみすぼらしい服装だったが、この女性は、眼を奪うほど綺麗な軍服を着ていた。
しかもゲルマン民族の女性らしく、みごとな金髪で、すばらしい美貌だった。
入国審査のカウンターのわきに、わずかながら、お土産の品が展示されていた。素朴な農民姿の、手作りのお人形が10体ばかり、無造作に並べてある。
私はこの人形に目をとめて、若い女性に値段を聞いた。10マルクという。思わず耳を疑った。
たかだか10センチほどの大きさで、作りも雑だし、見た目もよくない。そんな人形ならせいぜい1マルク程度だろう。
私の驚いた顔が気にいらなかったのか、その美女は、じろりと私を睨みつけて、
「べつに買わなくてもいいのよ」
といった。
そのいいかたが、じつに尊大で、傲岸だったので、私はその場を離れた。二、三歩、歩いたとき、私は翻意した。
この人形はぜひ買っておこう。そして、この人形を見るたびに、共産主義国家の入国管理のクソ女が、外国人に対してどんなに傲慢無礼な態度で接していたか思い出すことにしよう。
私は、「ベルリンの壁」が崩壊したとき、この人形を机に飾って、ドイツ・ワインを飲みながら、
「よかったね、おばさん」と声をかけた。
このテレビ・ドキュメントを見たあと、久しぶりに人形を机に飾ってやった。
「これから、きみの名を「カトリン」と呼ぶことにしよう」
人形はニコニコした表情で私に笑いかけていた。