【10】
ガルボほど、世間の目から自分をまもり通した女優はめずらしい。孤独な女性だった。
大スターになってからも、外出するときは口紅もつけず、トレンチ・コートや、粗末なワンピースを身につけて、頭にはいつもベレェかフェルトの帽子をかぶっていたので、誰もガルボとは気がつかなかった。
スクリーンのガルボは、いつも絢爛豪華な宝石を身につけていたが、オフ・スクリーンでは、ダイアモンド一つ身につけない。自分専用のプライヴェート・ビーチでは全裸のままだった。ずっと後輩の女優、ジェーン・フォンダが、ガルボといっしょに泳いだときも全裸だったと語っていた。
今の私が、心から残念に思っていることがある。
ガルボが――サラ・ベルナールか、ジョルジュ・サンドの伝記に出ていたら。あるいは、バルザックの「ランジェ侯爵夫人」、または、戦後、アメリカのベストセラーになった「死よ奢るなかれ」、「従妹のレイチェル」、それらのどれか1本でも出ていたら。
ガルボが出演する可能性は大きかった。もし、そのどれか1本でも出ていたら、ガルボの評価はさらに高くなっていたにちがいない。
2015年11月26日、テレビのニューズ。女優の原 節子が亡くなったという。享年95歳。
9月5日に肺炎で亡くなっていたが、11月25日になってはじめて知られた。
原 節子は、戦前から戦後にかけて、日本映画の代表的なスターだった。
1962年に、スクリーンから去ったが、独身を通したため「永遠の処女」と呼ばれていた。引退後、半世紀、まったくジャーナリズムに姿を見せなかった。
私は、ほんの一時期、映画の仕事をしていたが、たまたま会う機会があった彼女の義兄、熊谷 久虎に好感をもたなかったので、原 節子に会う機会はなかった。(私といっしょに熊谷に会った友人の西島 大が、「狼煙は上海にあがる」のシナリオを書いた。この映画で新人、仲代 達也が起用された。西島の次作は、これも新人の石原 裕次郎の出世作になった「嵐を呼ぶ男」である。)
私は、「河内山宗俊」(山中 貞雄監督/36年)から、原 節子の映画をほとんど見てきた。ファンのひとり。
だが、原 節子に対して「伝説の女優」などという称号をささげるつもりはない。ただ、日本の名女優のひとりと見れば足りよう。ただ、原 節子の逝去から、自然に、グレタ・ガルボを思い浮かべた。
原 節子が「伝説の女優」なら、ガルボは、まさに20世紀の神話、スクリーンの伝説といってよい。ガルボは、なぜ早く引退したのかと訊かれて、
私は孤独になりたい、などといったことはありません。ひとりにしておいて、と
いっていただけよ。そこには、大きな違いがあります。
という。原 節子も、おなじ思いだったにちがいない。
晩年のガルボは語っている。
死ぬって? 死ぬこと? 私は、長い年月、死んでいるのよ。
私は、あまりにも多くノーをいいつづけてきたわ。今ではもう遅すぎるわね。
私の才能はいずれ枯渇するでしょう。私は多芸多才な女優ではないのですから。
私の好きなガルボのことば。
私は、何百万という男のひとにとっては、ひとりの不実な女なのよ。
(映画コージートーク・ガルボ)