【23】
いまさらながら、「近代文学」の同人に私は多くを負っている。
1946年、「近代文学」の人たちについてあまり知らなかった。
戦後になって、シュヴァイツァーの「文化の再建」を読んだ。これは山室 静の訳だった。トーマス・マンの「自由の問題」や、イーヴ・キューリーのロシア紀行、「戦塵の旅」なども読んだ。トーマス・マンは、高橋 義孝訳。イーヴ・キューリーは、坂西 志保、福田 恆存共訳。
山室 静は、翻訳家として知られていた(というより、私がたまたま翻訳を読んでいただけのことだが)。高橋 義孝も、福田 恆存も、まだ無名だったに違いない。
しかし、こうした本を読みつづけているうちに、はじめて翻訳という仕事に興味をもつようになった。
「近代文学」の人たちは、いずれも外国語に造詣が深い。
荒さんは英語の本を訳しているし、埴谷さんはドイツ語でカントを読んでいる。佐々木 基一さんも、後にルカーチを翻訳するほどの語学力を身につけている。
ただし、私は語学を勉強する気はまったくなかった。
これまで一度も書いたことはないのだが、私が外国語を勉強する気を起こさなかった小さなできごとがある。
私は、大森山王の椎野の家に毎日遊びに行って、芝居や文学の話をしていた。椎野家も戦後のインフレーションの影響をうけたため、椎野は、戦後復活した劇団に戻れず、「時事新報」に就職したのだが、このとき、椎野家は二階の和室を貸すことにしたのだった。
この間借人こそ、東大仏文きっての秀才で、戦後、彗星のように文壇に登場する作家だった。椎野家に引っ越してきたのは、作家として知られる直前の時期だった。
ある日、私は椎野の家に遊びに行ったが、不在だった。
毎日、遊びに行っていたので、私は家族どうようで、玄関先で椎野のご両親にも声をかけるくらいで、すぐに階段をあがって行く。椎野が不在でも、気ままに書棚の本を読む。そんな習慣だった。
私は、いつも通り隣りの部屋に入った。書院ふうの八畳間だった。
部屋のようすが一変していた。左側、窓の当たりから壁いっぱいに新しい書棚が長くつづいている。私の目の高さ、五段ほどの棚にぎっしりと本が並べられていた。
数百冊、全部がフランス語の原書だった。日本語の本、漢籍は1冊もなかった。
はるか後年(1989年)、この作家の書いた一節を引用しておく。
少年時代から西欧の文物に憧れ、油彩や版画、それから気まぐれにも映画の制作に迄手を拡げた私は、幼時に漢学者だった祖父によって、厳しく仕込まれた儒学の初歩への悪印象から長らく中国古典ヘはアレルギー反応を起こしていたのだが……(後略)
当時の私は、この作家について何もしらなかった。ただ、小説を書いているらしいと聞いていた。
私はただ茫然としてこの蔵書を眺めていた。
羨ましいとは思わなかった。戦災でわずかな蔵書を失った私は、この膨大な原書に圧倒された。ひとかどのもの書きになるためには、どれほどの努力が必要なのか。
とても追いつくことはできない。
このときから、私の内部に別の考えが生まれたのだった。
おなじように、遠藤 周作の家に遊びに行ったことがある。
彼がフランスに留学する少し前だったから、一九四九年頃だろう。このときも、私は遠藤君の書棚を見て驚嘆した。おびただしい蔵書が並んでいる。そのなかには、私も読んだ本がかなり多かったが、私は読んだ本はすぐに叩き売って、別の本を買うほど貧乏だったので、遠藤君の蔵書を見て羨ましいと思った。
このことからも私の内部に別の考えが生まれたのだった。