1618

 

     【14】

戦後の一時期ほど、さまざまな議論が沸騰し、誰もがお互いに夢中になって語りあった時代はない。昨日まで、お互いに知らなかった人たちが、百年の知己のように生き生きとした会話をかわし、討論したり論争したり、ときには酒の勢いもあって殴りあいになったりしたものだった。
私なども、武田 泰淳に首をしめられ失神しそうになったことがある。

1946年、妹が就職したため、我が家の経済状態はいくらか楽になった。ある日、妹が新しい服を買ったので、それまで着ていた服を私に譲ってくれた。ブルーの背広だったが、裏地が赤のベンベルグだった。妹はあたらしいパンプスも買ったので、それまではいていた平底の靴を私にくれた。女ものなので気がひけたが、私はこの服と靴で押し通した。
ある日、「近代文学」のあつまりが、中野の「モナミ」であった。その帰り、私は野間 宏といっしょにプラットフォームで電車を待っていた。いつものように文学論をかわしていたのだろう。
野間さんが、私の足元に目をおとした。不思議なものを見たような表情になっている。
私が女もののパンプスをはいていることに、始めて気がついたのだった。
野間さんは黙って見ていた。顔から火が出るような思いだったが、私は黙って立っていた。
「きみは、いい靴をはいているね」
と、野間さんがいった。
「妹からもらいました」
野間さんの口もとが、数秒たってゆっくり左にあがった。これが野間さんの微笑だった。それだけで、あとは何もいわなかった。

裏地があざやかな赤で、胴がキュッとしまっているブルーのジャケット、履いているのが女もののパンプス。まさか野間さんが、私を女装趣味(トランスヴェスタイト)と見たはずはない。
ただ、そんな私を見て、ひとりだけ気がついた人がいる。

「時事新報」の記者で、小説を書いていた鈴木 重雄だった。私より、一世代上の先輩で、「三田文学」出身、私小説を書いていた。作家としては大成しなかったが、戦争中、白いウールのセーターに派手なネクタイを巻いて銀座を歩くようなダンデイーだった。夫人は、「ムーラン・ルージュ」出身で、のちに「日本の悲劇」などで名女優といわれた望月 優子。
私が、しょっちゅう有楽町の「時事新報」に行っては、近くの喫茶店で椎野と話をしたり、ときにはいっしょに芝居を見に行くので、疑ったのかも知れない。
「中田君、きみって、コレじゃないの?」
片手をあげて、手のウラで口を隠す仕種だった。私は鈴木 重雄が何をいっているのか、そのしぐさがよくわからなかった。
鈴木 重雄は、図星をさされた私がトボけて、知らぬ顔をして見せたと思ったのか。鈴木 重雄はニヤニヤしていた。

それからしばらくして、私は、「劇作」の集まりに出た。ここで、はじめて、「劇作」の同人たち、とくに内村 直也先生と親しくなったが、この席に、鈴木 八郎がいた。
彼は完全なホモセクシュアルで、劇作家志望だった。私は、鈴木 八郎と親しくなってから、はじめてゲイについて知ったのだった。

ブルーのジャケットに女もののパンプス。
こわいもの知らずで、先輩たちの議論にとび込んで、いっぱしに文学論を戦わす。この頃の私は鼻もちならない、生意気な文学少年だったと思う。今の私は、先輩の批評家たちを相手に、とくとくと昭和初期の作家を語っていた「中田耕治」を思い出すと、はげしい嫌悪をおぼえる。というより、恥ずかしさのあまり、ワーッと叫びたい気分になる。