【4】
少年時代の私には、少数ながら大切な友人がいた。
小川 茂久、覚正 定夫、椎野 英之。
小川は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、はじめ仏文の助手だったが、私の紹介で、安部 公房と親しくなり、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。椎野 英之は、「東宝」のプロデューサーになる。
小川 茂久が大森に住んでいたので、なにかと世話になった。蔵書が全部焼けたため、読む本がなかった私に、有島 武郎の全集や、鴎外などを贈ってくれたのは、小川 茂久だった。
小川については何度か書いたが、椎野 英之のことは、これまでほとんど書く機会がなかった。1945年8月、たまたま、おなじ山王に椎野 英之が住んでいたので、彼と親しくなった。
椎野 英之は、私より二期上。もともと俳優志望で、戦時中に「文学座」の研究生になっていた。同期に、荒木 道子、丹阿弥 谷津子、新田 瑛子、賀原 夏子など。
「文学座」の研究生として、ジュリアン・リュシェールの「海抜2300メートル」(原 千代海訳)の勉強会に出た。(この勉強会が、戦後すぐからの「文学座」アトリエ公演につながっている。)
私が見た舞台では、森本 薫の「怒濤」(1944年)で、椎野はガヤ(その他大勢)で出た。セリフはたったひとことだけだったが。
1945年5月、森本 薫の「女の一生」が渋谷の「東横」で上演されたが、わずか4日目、大空襲で劇場が焼亡したため、「文学座」の活動も中止された。
私は、この公演を見ている。戦時中に見た最後の新劇の舞台だった。戦時中に「文学座」を見た人も、もうほとんどいないだろう。東京は一面の焼け野原で、劇場らしい劇場はなくなっていた。もともと映画館だった渋谷の「東横」を改装して舞台にしたのだった。しかも、連日の空襲下で、夜間の公演はできず、マチネー中心の舞台で、4日目には劇場ばかりか、渋谷から世田谷、杉並にかけて焼き尽くされたのだった。
椎野のクラスは勤労動員で、石川島の造船所で働いていた。私たち下級生は川崎の「三菱石油」の工場で働いていた。ところが3月の大空襲で石川島の工場が壊滅したため、椎野たちも川崎の「三菱石油」の工場に合流した。
私が親しくなったのは、このときからだが、その後、椎野は召集された。小川も 敗戦の直前に招集された。私も、9月に入隊ときかされていたが、8月15日に敗戦を迎えたのだった。
椎野の家は、あるいて7、8分の距離だったので、毎日遊びに行った。何を語りあったのか、もうおぼえていない。しかし、椎野のおかげでいろいろな戯曲を読むことになった。
椎野は、あまり本を読まなかった。本棚にならんでいるのは、ガリ版の台本が多く、あとは、戯曲ばかりが20冊ばかり。そのなかに「にんじん」や「ドミノ」があった。
椎野が好きな劇作家はロシアのキルションだったが、日本の劇作家では、久保田 万太郎だった。私は、浅草の劇場で喜劇の台本めいたものを書いたことがあった。そんなことから話が合って、椎野が眼を輝かせた。
年下の私が、戯曲にかぎらず、いろいろなジャンルの本を読んでいると知って、何かわからないことがあると私に聞くようになった。