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閑院宮 載仁(かんいんのみや ことひと)親王という皇族がいた。
陸軍元帥(げんすい)だった皇族。軍人として最高位にあった。
日清・日露の戦争に従軍。1931~40年には、参謀総長をつとめた。

1921年3~9月、当時、皇太子がヨ-ロッパ諸国を歴訪したとき、その補佐をつとめた。この皇太子がのちの昭和天皇である。

第一次大戦が終ったばかりで、戦争の記憶もなまなましく残っていた時期である。
載仁(ことひと)親王は、激戦地、ヴェルダン、ソンムの戦跡を視察した。親王を案内したのは、フランス軍の最高指令官、ペタン元帥だったという。
閑院宮はその印象を日記に書いた。(14.6.4.「読売」)

糧食、水等つきて小便までも呑んで抵抗せしも、ついに力尽きて降参せしと云ふ。村落の如きも全部なき所あり。実に悲惨なる実況なり。

私はこの「日記」をぜひ拝見したいと思う。
若き日の閑院宮 載仁は、フランスのサンシ-ル陸軍士官学校で学んだはずである。
日本の若い皇太子を案内したペタン元帥と閑院宮は何を語りあったのか。あるいはヴェ
ルダン、ソンムの戦跡を見て閑院宮は何を学んだのか。

はるか後年、4半世紀後に、ペタン元帥は、フランスの国民裁判にかけられた。
そして、1945年8月15日、すなわち日本敗戦の日、ペタンは死刑を宣告された。だが、かつて直属の部下だったシャルル・ドゴ-ルによって死一等を減ぜられ、終身刑に変更された。
その日、敗戦の直後、連合軍の指令で、閑院宮 載仁も、A級戦犯として訴追されたはずだが、本人をはじめ日本人は、閑院宮がA級戦犯として訴追されるとは誰ひとり予想もしなかったはずである。

日本の近代史を見ていると、閑院宮 載仁や、外国での見聞に不足のなかったはずの海軍元帥、伏見宮 博恭(ふしみのみや ひろやす)などが、なぜもっと別な形で昭和天皇を補佐できなかったのか、私は今でも疑問に思っている。