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リディア・ディヴィスの『ほとんど記憶のない女』(白水社)を読む。
この数年、私が読んだ小説のなかで、いちばんすぐれたものの一つ。
全部で61編の短編。少し長い短編もあるが、「面白いこと」、「たいていの場合彼が正しい」、「恐怖」など。いずれもわずか数行の短編。「ピクニック」という短編はむずか2行。「恋」は3行。ほかにもわずか1ページにみたない掌編が多い。いちいち読者に紹介するわけにはいかないが、「ロイストン卿の旅」、「サン・マルタン」などは比較的長い短編。
それぞれ硬質な輝きを放つ宝石や、きらきらしたビーズや、少しいびつなガラス玉や、女性なら誰でも身につけるアクセサリ、そんなものを無造作に放り込んだ宝石函。しかも、風にのってはこばれる植物の種子のように、しなやかで、かろやかな柔毛(にこげ)や、するどいトゲをもっている。不思議な小説ばかり。
幻想的な世界もあれば、古めかしい紀行文めいた旅行記もある。寓話的だったり、離婚する女の苦悩や、友人に対するするどい観察もある。グレン・グールドや、ミッシェル・ビュトールなどにふれながら、思考がアメーバのようにどんどん増殖してゆく。
誰もが考えそうでいながら、けっして考えないようなことをリディアは考える。表面はそれほど独創的には見えないが、ほんとうはじつにユニークな発想なのだ。その背後、というか、その考えの先にあるものが、いきなり私たちにつきつけられる。
しばらく前にひとしきり評判になったミニマリズムの作品を連想させるけれど、ミニマリズムの作家と比較しても、刺激的な緊張、密度、そこで語られるナレーションの意外さ、女であることを見つめるきびしいまなざしにおいて、はるかにすぐれている。
どの短編もつぶぞろいで、語られていることもおもしろいが、不意に切断されたような、それ以上は語られなかったことが、私たちにいろいろな想像させる。
どれをとってもみごとな短編だったし、なによりも翻訳がすばらしい。
翻訳することは読むこと。翻訳することは書くこと。もし読むことが翻訳することで、翻訳することが書くことなら・・書くことは書くこと、読むことはまた読むこと。そうなると、読むことは読んで読むこと。「読んでいるときは、書いているので読み、読んでいることは翻訳もしているので読む、したがって読んで読んで読んで読むこと」(「くりかえす」)という。これはそのまま訳者の岸本 佐知子の姿勢に違いない。
訳者は、ニコルソン・ベーカーや、「ヴァギナ・モノローグ」の訳で知られているが、翻訳家として、エッセイストとしても、もっともすぐれた仕事をしているひとり。
私は、ふとアナイス・ニンを連想した。とくに彼女の処女作品集『ガラスの鐘の下で』を。アナイスとリディアにはなんの関係もない。リディアには、アナイスふうに幻想的、セミ・シュールレアリスティックな作品はまったく見られないのだが。
しかし、アナイスもリディアも、私に小説を読む楽しさを教えてくれた。小説を書きたい人は、ぜひ、彼女たちを読むほうがいい。
私は、ときどき気がむいたときリディアの作品の一つ二つを読む。おいしいケーキを食べるようにして。むろん、ひどく苛烈な味が残るけれど。

『ほとんど記憶のない女』
リディア・ディヴィス著
岸本 佐知子訳
05.11.5刊  白水社 1900円