遊佐 幸章の「日記」から、敗戦をはさんで3週間のことが、私の記憶によみがえってきた。
8月9日、はじめて、吉田 甲子太郎の「文学概論」の講義があった。(木曜日だったことがわかる。終戦まで、あと6日。まだ、誰ひとり、この戦争がおわることを知らない。)
遊佐は、吉田 甲子太郎の「明治大正/文学概論」について、あまり面白くない。つまらない講義だと思った」と書いている。
私もいっしょだったが、ほんとうにおもしろくない講義だった。
吉田 甲子太郎先生は、もともと作家志望で、山本 有三に師事したが、まともな作家にはなれなかった。ただし、「朝日壮吉」というペンネームで、いろいろな雑文、通俗読みものを書きつづけ、一方では「サランガの冒険」などの少年小説を書いていた。敗戦直後に、こうした少年小説がじつはアメリカの少年小説のリライトや、翻案ばかりと知って、あきれたおぼえがある。
そして、この8月9日、夕方、ソヴィエトが日本に対して宣戦布告し、満州に進出したのだった。
8月10日、豊島 与志雄先生の「芸術論」の講義はあった。ヒロシマに原爆が投下された直後である。もはや、授業どころではなかったはずだが、豊島先生は、ご自宅が本郷だったこともあって、大学においでになったのではないかと思う。
講義の内容は、戦時中の雑誌、「文芸」(野田 宇太郎編集)、それも終刊号に、豊島さんが発表した「短編小説論」を、私たちにもわかるようにやさしく解説したものだった。私は、はじめて小説の読みかたを教えられた様な気がした。
このときから豊島 与志雄という作家に敬意をもった。(後年、私は「豊島 与志雄論」めいたものを書いたが、豊島さんの自宅を訪れて、話をうかがったこともある。今でも、豊島さんの風貌や、そのときのお話はよく覚えている。)
8月13日、残念ながら小林 秀雄の講義はなかった。ヒロシマに原爆が投下されたような状況だったから、授業どころではなかったにちがいない。遊佐君は大学に行ったが、誰ひとり学校にいなかった。(むろん、私も行かなかった。)
そして、日本は連合国に降伏した。遊佐の「日記」にこの日の記述はない。
(つづく)