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この「日記」の「中田耕治」(大学一年)は、仙台に帰省した彼にあててハガキを出している。
それによると、「純粋」という同人雑誌を出すことをつたえ、共通の友人だった小川茂久が、覚正 定夫といっしょにアランを勉強しはじめていること、都城 範和は、チェホフの「煙草の害について」を独演したことなどを知らせている。

(小川 茂久は、後年、明治の仏文の教授になった。覚正 定夫は、左翼の映画評論家、柾木 恭介として知られる。都城 範和は、戦後、「太陽」の編集者になったが、フランスに留学し、画家をめざしたが、若くして亡くなっている。)

この「純粋」という同人雑誌は、3月10日の空襲で焼けた。

関口(功)君の手紙によれば、渡瀬・金子富雄の二君も行方不明とのこと、多分
死亡したのでしょう。中田氏は、埼玉の親類の家にいるそうです。二年生には四
人の罹災者があったそうです。

この関口 功は、小川とおなじように、後年、明治の英文の教授になった。渡瀬 明は、白皙の美少年で、工場でも、おなじように動員されてきた女子学生を相手にいろいろと艶聞があったが、3月の大空襲で、おそらく深川で死んだらしい。金子富雄は、まじめな学生だった。ある日、私に向かって、
「ぼくをきみの弟子にしてくれないだろうか」
といった。
私は、彼にイリヤ・エレンブルグの小説を読ませた。つぎに、ソログープかなにかを読ませようとしていたときに、やはり、この空襲で亡くなった。私には、金子富雄は忘れられない学友だった。

やがて、7月、私たちが勤労動員で働いていた工場が、空襲をうけた。このときは、私はもとより遊佐君も工場にいて、必死に逃げたひとり。
(つづく)