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中学1年で知り合った友人、しかも、1946年の2月から、お互いに音信不通のままで過ごし、じつに70年の歳月をへだてて、その友人の「日記」を読む。
ふつうでは、なかなか考えられないことだろうと思う。

遊佐君が、1944年、45年、46年当時に、とびとびながら「日記」を書いていたというのも驚きだった。当時、上京、帰郷、戦災、そんなときにもこの「日記」だけは手元に置いていたので、残ったのだろう。
「日記」の冒頭に、「日記」をつける動機、心構えのような説明がある。

 

この「日記」は、強いて文学的に作ろうとか他に野心とかいふものをもつてゐない。/本当に只の日記といふ気持で僕はかいている。/自分の心のままを、その日の心をここにうつし、そしてこんなものでもあとに思い出としてのこしたく、筆をとっている。
こういふことをいふのも、又、僕は誰にでもない。空虚に向かって言いたいから言っているのだ。

 

これは、1944年1月18日の記述。体調をくずしていた少年は、この日、夜行に乗って、翌日、仙台に帰省している。敗戦間近の東京で、食料の配給さえ滞りはじめていた時期、ひとりで下宿しながらふなれな工場暮らしを続けていた孤独な少年の姿が眼にうかんでくる。

当然のことながら、この「日記」に、「中田耕治」が登場する。

まず、中学生の頃の私が、遊佐君には、どう見えていたのか。

「日記」に出てくる(中学一年生の)私は、土樋に住んでいた。
戦後はなくなってしまったが――柳川 庄八という浪人者が、青葉城外で、伊達藩の家老、茂庭周防守(すほうのかみ)を暗殺し、その首級をひっつかんで、ひた走りに走りつづけ、やがてあたご橋のたもとでその首を洗い、さらに逃亡をはかった、という伝説があった。
柳川 庄八は戦前の講談に出てくる仇討ちのヒーローである。その「首洗いの池」のすぐ隣が私の家であった。

遊佐 幸章と遊んだのは、あたご橋の先の越路という地区。広瀬川のほとりの原ッパに寝ころんで、よく晴れた空をながめながら、幼い文学論でもかわしたのだろう。
遊佐 幸章は美少年だった。私は、彼の美声を聞いて、淡いあこがれをおぼえていた。
このとき、彼が何を歌ったのかおぼえていない。
(つづく)