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今年の夏は猛暑がつづいていた。そのため、せっかく再会できた遊佐 幸章に会うこともむずかしかった。
10月になって、いくらか秋の気配が感じられるようになって、私たちは、また会うことができた。体力、気力がおとろえている老齢なので、ただ会うだけでも、けっこうたいへんなのである。

遊佐 幸章は、戦後、勉強し直して、教育者になった。音楽教育に力を入れ、八王子の上館小学校校長として、有終の美をかざり、現在は「ホッホナーゼ・グループ」という合唱団の指導にあたっている、という。

遊佐君は、別れ際に思いがけないものを見せてくれた。

1944年12月21日から書きはじめて、1945年8月の敗戦、さらに翌年、上京して、敗戦後の東京をさまよっていた時期の日記であった。
若き日の「日記」2冊。

「日記」の最初の1冊が、1944年12月21日に書き起こされて、1946年2月9日まで。
もう1冊は、1944年2月12日から、1946年7月30日まで。
つまり、敗戦を挟んで、「戦後」のもっとも初期に書かれている。

粗末な紙質の日記だが、多感な少年が、折々のことを万年筆で書きつづっている。1944年12月21日の書き出しは――

 

毎日、空襲があるので、やりきれない。
工場から帰って来て銭湯に入って、直ぐに空襲である。(中略)
今日僕達の工場に二年生が入所した。もう相当の年輩の人がいるので驚いた。今日此頃の組の空気は、どうもにごっている。皆な浮かない顔をしている。木村さんは行ってしまうし(兵隊)、試作時代の主だった人々は体抵休学してゐるし、何やかやと面白くないことばかりである。
今日の工場からの帰りの電車の内でのこと。僕は中田耕治氏とよもやまの話をしてゐた。中田氏は僕が中学一年のとき、一寸遊んだことのある友達である。
彼は昔の思い出話しをした。
僕が彼と遊んだのはあたご橋の近所の松が五六本立ってゐる小ぢんまりとした草原が主だ。といっても、中田氏とは、一、二度きり遊んだことは無かったが……
或日、僕は彼の前で草の上に寝ころびながら歌をうたったのださうである。(僕は忘れたが)。

 

ここに出てくる「木村さん」は、私より三、四歳年上で、軍隊生活も経験していた。本名、木村 利治(としはる)。頭のなかに、太宰 治の作品しかなくて、小説家志望だった。当時、出征して中支戦線に配属され、陸軍中尉になった。敗戦後、武漢から上海まで行軍し、身長が3センチも縮んで復員した。岩手県にいる両親のもとに戻ったが、1947年、肺結核で亡くなっている。私にとってはかけがえのない親友のひとりで、後年、長編、「おお 季節よ 城よ」のなかで、木村のことを書いている。
「試作時代」は、当時、私と同期の小川 茂久、木村 利治、進 一男、青山 孝志たちが、はじめた回覧雑誌。戦時なので、ガリ版の同人誌を出すことさえできなかった。だから、みんなの作品をあつめて、それをクツヒモで閉じただけのもので、とても同人雑誌などといえるものではなかった。
それでも、小川は「太宰 治論」を書いたし、私は「小林 秀雄論」めいたものを書いている。
(つづく)