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 まったく個人的な回想。

 1945年、私は川崎のある軍需工場で、労働者として働いていた。いわゆる学徒動員で、きわめてわずかな例外をのぞいて、中学生、高校生、大学生の全員が、軍需生産の現場で就労することが決定された。
 私が配属されたのは、「三菱石油」の川崎工場という従業員、わずか2百人程度の小さな工場だった。私たち学生は50名ばかりで、現場ではドラム缶の製造をやらされた。事務関係では、「共立」の女子学生がきていたが、現場から離れていて、はるか遠くから眺めただけだった。
 隣接する日本鋼管の工場には数千人の労働者がいて、アメリカ軍の捕虜たちも、数十名の規模で働かされていた。

 7月、アメリカ空軍が川崎を空爆したが、日本鋼管の工場が爆撃された。このとき、「三菱石油」もねらわれて、海岸に積み上げられていたドラム缶が直撃され、数千本が炎上した。
 ドラム缶が、つぎつぎに空に吹き上げられ、空中で爆発し、炎の固まりになって、まだもえていないドラム缶の列に降りそそぐ。これほど凄まじい猛火を相手に、防火作業などできるはずがない。
 私をふくめて10人足らずの学生は、ドラム缶の列から必死に離れた。頭上に落ちてくるのは、火の粉ではなかった。炎の滝というか、とてつもない量の火柱の列だった。
 私が、海岸に近い工場から、次の工場にたどりついたとき、陸軍の憲兵が、手にした小銃に、腰から抜いた銃剣を着けて、実弾をこめて、逃げ出そうとする工員たちの前にはだかった。

 「逃げるな! 逃げる者は即座に銃殺する!」

 この憲兵は伍長か軍曹だった。日頃、この工場に派遣されて、労働者の作業状況などを監視していたヤツだった。このとき、彼は逆上していたのではないか、と思う。

 私は、憲兵ひとりが実弾入りの小銃で威嚇したところで、この大火災に浮足だった労働者たちの流れをおしとどめることはできないだろうと見た。すでに、火がその工場の屋根にも燃えひろがって、労働者たちは、われがちに逃げだした。
 徴用で沖縄からつれてこられた労働者や、朝鮮人の労働者たちも逃げた。私もそのひとりだった。

 ものの10分もしないうちに工場の半分に延焼がひろがって、つぎからつぎに猛火につつまれた。

 この火災で、隣接する「日本鋼管」の工場で働かされていたアメリカ塀の捕虜にも死者が出た。
 私の工場では多数の少年が焼死した。九州の小学校を出て、すぐに集団で、この工場に動員された少年ばかりだった。いまでいう集団就職だが、当時は徴用といういいかたで、やっと小学校を出たばかりの子どもが駆り出されたのだった。
 私は、このときいらい、小学校を出たばかりの子どもまで、犠牲にしなければならない事態は、人倫上、あってはならないと考えるようになった。

 首都直下型の大地震というカーネージ Carnageで、非常事態宣言なり戒厳令が出た場合、私の工場にきていた憲兵のようなヤツが、逆上して、銃を乱射するようなことが起きないとはかぎらない。あるいは、集団的なフラストレーションや、マス・ヒステリアが逃げまどう群衆にどういう行動をとらせるか想像がつくだろうか。

 つぎに首都直下型の大地震がくれば、高齢者の私はおそらく命を落とす可能性が大きいと考える。体力がなくなっているし、運動能力もいちじるしく衰えている。
 どうかすると、地下鉄に乗っていて、いきなり大洪水に襲われるかも知れないし、ラブホに入って、ホテルが倒壊し、あえなく瓦礫に押しつぶされるかもしれない。
 では、どうするか。できるだけそういう事態を避けるのは当然だが、しかし、そういう不測の事態もけっして「想定外」ではないと腹をくくったほうがいい。 (つづく)