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神崎 保太郎がどういう人だったのか。私は知らない。しかし、この雑誌の、和文英訳の出題、講評を担当している。
おなじ「英語研究」のフランス語講座を河盛 好蔵が担当している。この雑誌の読者には神崎、河盛のコラムは新鮮な魅力があったに違いない。

神崎 保太郎の出題は――

エヂソンは、オハイオ州という片田舎に生れたのでありますが、正則な学校教育
といふものは僅か六ヵ月しか受けてゐないのです。なぜ学校へ行かなかったか、
それは貧しいからでも病気だったからでもないのです。(後略)

こういう内容が、十数行つづく。そして、受講者の和訳の例が、神崎先生の削除、添削入りでいくつか並べられている。

神崎 保太郎自身の訳例では――

Edison was born in a remote country-
place called Ohio.He was only six mo
nth at school.What prevented the boy
from attending school? He was neithe
r too poor nor too weak to go to sch
ool.

生徒たちの訳例もとりあげたいのだが、別の機会に。

次回の課題は――

政友会とその共鳴者は金本位制の維持について、多数国民と所見を異にし、現下
の経済難局を打開し、国民生活の安定を計るが為には、却て金輸出再禁止を実行
との主張を成しつつあったのである。(後略)

これは、「朝日」(1931.12.11)から。むろん、もっと長い記事の引用である。
もう一つは――

私がこの小豆島に渡って来たのは、二年越しの約束によってだった。初めI君か
ら、内海の風光を見ながら自分の家に逗留するやうにといふ好意ある言葉を受け
て以来、その機会を見出し得ず、今日になったので、その今日を島の同人は喜ん
でくれた。(後略)

これは、荻原 井泉水の随筆、「山荘雑記」から。

こういう例題から、日本にはじめて、ルイ・ジュヴェを紹介した神崎 保太郎がどういう人物だったのか、と同時に満州事変が起きた時代の緊迫が少しは想像できる。

1932年(昭和7年)、私は6歳。