評伝、「ルイ・ジュヴェ」を書いていた時期、私の頭からはなれなかった疑問が一つあった。
たいした疑問ではない。しかし、できればつきとめておきたい問題だった。
日本では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られていたのだろうか。
小山内 薫は「モスクワ芸術座」をみていたが、パリの「ヴュー・コロンビエ劇場」は見ていない。土方 与志も見ていたかどうか。ただし、「築地小劇場」の旗揚げ公演は、ゲオルグ・カイザーの「海戦」が有名だが、エミール・マゾーが選ばれていることから、「ヴュー・コロンビエ劇場」のことは知られていたと見ていい。
それでも、ルイ・ジュヴェのことは何ひとつ知らなかったと思われる。
同時代でルイ・ジュヴェを知っていた人びとは、当時、フランスで演劇を勉強していた人々、例えば、岸田 国士、岩田 豊雄、久生 十蘭、あるいは、詩人の柳沢 健、作家の芹沢 光治良などがいる。
しかし、私の知るかぎり、1920年代、これらの人びともルイ・ジュヴェに言及したことはない。
日本にひろくジュヴェが知られたのは、1935年(昭和10年)映画「女だけの都」(ジャック・フェデル監督)が公開されてからである。
この映画で、ジュヴェは日本の映画ファンに強烈な印象をあたえた。(「ルイ・ジュヴェとその時代」第四部第二章)
岸田 国士門下の菅原 卓、阪中 正夫、川口 一郎、田中 千禾夫、内村 直也たちが、同人誌、「劇作」を創刊するのは、1932年(昭和7年)である。
同人のなかに、金杉 惇郎、長岡 輝子がいたから、この人たちの間では、ルイ・ジュヴェの仕事はよく知られていたはずである。
ただし、ジュヴェの名が登場するのは、かなり後になってからといってよい。
では、いつ頃から、ルイ・ジュヴェの存在が知られるようになったのだろうか。
私にはこれが気がかりな「問題」になっていた。
(つづく)