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 戦後、ラジオの放送が一変した。それまで、大本営発表の戦況と、空襲警報ばかり聞かされていたのだから、戦後のラジオは驚くべき変化だった。

 戦後すぐに、占領軍は、内幸町のNHKに、AFRS(American Forces Radio Service)のキー・ステーションを置いた。
 私の父は、戦前から、外資系の商社で働いていたから、このAFRSのニューズを聞くようになった。むろん、英語を知らない私には、内容はまったくわからなかった。

 ある日、それまで聞いたこともない音楽が流れてきた。ジャズだった。
 曲名も、演奏者も知らない。だいいち、ジャズのどこがいいのか、まったくわからなかった。今でもおぼえているのだが、ショパンの曲をアレンジした曲が流れてきて、私は殆ど茫然とした。アメリカでは、とんでもないことをやっている連中がいる! そう思った。しかし、すぐに、ジャズのおもしろさに惹かれて行った。
 これは、えらいことになった。私の聞いていた音楽とは、まったくちがう演奏だし、ルールも何もブッこわしながら、これだけすごい音を出している!

 衝撃だった。

 当時の私は知るよしもなかったが、ディジー・ガレスピーのフル・オーケストラや、ジョン・ルイス、チャーリー・パーカーなどを毎日聞いていたのではないか、と思う。
 はるか後年、私はガレスピー論、チャーリー・パーカー論などというシロモノを書いたことがある。これも、敗戦直後から、ラジオにしがみついて、AFRSのジャズを聞いていたおかげだった。

 戦後、私はある新聞のコラムで雑文を書きはじめたが、まとまったエッセイとしては、「ショパン論」が最初だった。これが、私の処女作ということになる。
 当時、私のひそかな目標は小林 秀雄で、戦後の「モーツァルト」を読んで、なんとか音楽論のようなものを書こうと思ったのだった。

 私の好みはジャズ、ロック、ポップスと変わったが、それでも、音楽から離れることはなかった。もっとも、音楽について書く機会はなかった。