しばらく前に――映画、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見た。
(’12.3.24 公開)
私は、このブログでとりあげるつもりはなかった。ずっと以前に、新聞や雑誌に映画批評を書いていた時期の私なら、この映画を批評しなかったと思う。
評価ははっきりしている。それほど、それほど、すぐれた映画ではない。
今頃になって、もう誰も見るはずのない映画について書く。ずいぶん酔狂な話だが、むろん、書いておこうと思った理由はある。ただし、映画評ではない。例によって、「マリリン・モンロー」というテーマをめぐっての閑話(コーズリー)である。
「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのは、当然ながら、「マリリン・モンロー」に関心があったからである。自分でも信じられないのだが――日本で、最初の評伝を書いた作家なのだから。(笑)
じつは、この映画を見る前に、作家、山口 路子の「マリリン・モンローという生き方」(新人物往来社)を読んだ。「ココ・シャネルという生き方」の著者である。
まず、この本について。
山口 路子は、「マリリン」に対して、私とはちがったやさしい理解をみせている。全体はマリリンの伝記といってもいいのだが、この女優の「生きかた」に通じる一種の「狂気」――とくに、恋愛、あるいはセックスというかたちであらわれるものを、女流作家らしく、とらえている。
「マリリン」の恋愛にあって、セックスという行為がもたらすものは、とても自然で、いわばリーズナブルで、しかも、女としての自負もふくんでいる。
ベッドではあられもなくみだれるような美しい女性が、一方では、真摯で、聡明で、近寄りがたいVirtu(ヴィルチュ)をもっているとすれば。たとえスクリーンの恋人だとしても、だれしも好意をもち、幸福さえも感じるだろう。
かくて、マリリンとは、多数の人が夢見て、作りあげ、組み立て、あらまほしい「女」として望んだファラシーなのだ。
そのあたりを、山口 路子は作家として、みごとにとらえている。
私は、それこそロマネスクな気分で、「マリリン・モンロー 7日間の恋」を見たのだった。
(つづく)