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昭和36年(1961年)。私が思い出すのは、キューバ危機である。
あのとき、世界じゅうの人々は、アメリカ/ソヴィエト間で全面的な核戦争になるのではないか、という恐怖におののいたのではなかったか。

全人類の運命が、アメリカとソヴィエト指導者の手に握られていることに、ひそかな怒りをおぼえた人も多かったはずである。私もそのひとり。

この昭和36年(1961年)、江藤 淳が「小林秀雄」を、小田 実が「何でも見てやろう」を書いた。
1961年、深沢 七郎の「風流夢譚」が発表されて、右翼が中央公論の社長宅を襲って殺傷事件をおこした。

個人的なことだが、「小林秀雄」を書く前の江藤 淳と、ほんのちょっとした関わりがあった。内村 直也先生の紹介で知り合ったのだが、私は彼の翻訳したコンラッド・エイキンをどこかの出版社からだせないものかと努力した。
生活のために翻訳をしようと考えていた江藤 淳を、当時、「早川書房」の編集者だった都筑 道夫、福島 正実に紹介した。これは、うまくいかなかった。(後年、都筑 道夫は、江藤 淳に会ったときのことをエッセイに書いている。)
小田 実は、「何でも見てやろう」が出版される直前に、「朝日新聞社」(当時は、有楽町の「日劇」のすぐ近くにあった。)の前で会った。
後年の小田 実と違って、蒼白い文学青年といった風貌だったが、鬱勃たる野心を抱いていることはすぐに見てとれた。
その後、私は通俗小説を書くようになったが、はじめての本が出たとき、出版記念会に出席してくれたのだった。
それ以後の小田 実とは、まったく交渉がなくなったが。

私は何をしていたのだろう?

東京の片隅で、ちっぽけな劇団をひきいた私はいつも金策にかけずりまわっていた。なにしろ金がなかった。親しい編集者にたのんで、出版社から印税を前借り、稽古場を借りる、劇場をおさえる。大道具、小道具をかき集めたり。とにかく、公演の費用を捻出するために動いていた。
私は何でも書いた。金がめあての書きなぐり。英語でポットボイラーという。
当時の私は、小説や雑文を書きとばし、同時に翻訳を手がけ、おまけに大学で講義をつづけていた。

いつも火の車だった。