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徳川三百年の歴史で、私が関心をもっているのは、「犬公方」と呼ばれた徳川 綱吉。

将軍以外では、尾張の徳川 宗春。

八代将軍、吉宗の時代に、宗春の治世は、

老若男女貴賤共にかかる面白き代に生れあふ事、是只前世利益ならん、仏菩薩の再来し給ふ世の中やと、善悪なしに有難や有難やと、上を敬ひ地を拝し、足の踏締なく、国土太平、末繁盛と祈楽み送る年こそ暮れ行ける

という。(享保十六年/1731年)
是只前世利益は、これ、ただ、ぜんせいのりえき、と読むのだろう。
こういうおもしろい時代に生まれあわせたのも、輪廻(りんね)のしからしむるところ、ありがたいことである、という意味。

ときあたかも、「ロビンソン・クルーソー」、「ガリヴァー旅行記」が書かれたすぐ後の時代。近松が亡くなり、白石、徂来が没した直後。

徳川 宗春の書いた「温知政要」は、りっぱな政治論で、おだやかな主張の背後に、宗春の理想がきらめいている。
その一節を私なりに直してみよう。

そうじて人には好き嫌いというものがある。衣服、食物をはじめ、人によって好き嫌いは違っている。ところが、自分の好きなものを他人に強制しようとしたり、自分の嫌いなものを人にも嫌いにさせようとするのは、たいへんに偏狭なことで、人の上に立つ政治家としては、あってはならないことである。

もとより宗春の姿勢は、幕府の許すところではなかった。
将軍、吉宗は、滝川 元春、石河 政朝を尾張に派遣して、宗春を詰問する。
このため、宗春も、享保十九年、二十年と、家中に布令を出して、綱紀の粛清をはかったが、幕府の追求はきびしく、元文三年(1738年)、ついに隠居を命じられた。

私は徳川 吉宗に関心がない。ただ、宗春蟄居の二年後に、青木 昆陽らにオランダ語の習得を命じて、これが日本の蘭学の発祥となったことを評価する。

総武線、幕張駅の近くに、昆陽神社がある。青木 昆陽を祀ったものという。
神社といっても、低くて小さな丘の上の祠(ほこら)で、あまり人も寄りつかない。
青木 昆陽は、房総が飢饉に襲われたとき、下総の人々に甘薯(さつまいも)の栽培を教えて救ったという。私は、年に一度ぐらいこの丘に立って、コンビニで買ってきたおにぎりをバクつきながら、遠く青木 昆陽を思い、はたして吉宗、宗春のどちらが名君だったのかと考える。