漱石さんの句に、
山高し 動ともすれば 春曇る
という句がある。
漱石さんにかぎらず、明治の作家、詩人たちの教養の深さにはいつも驚かされるが、私などが「ややともすれば」と書けば、どうかすると、とか、ひょっとすると、といった仮定だが、「動ともすれば」といった表現は絶対に出てこない。
うっかり、「動ともすれば」などと書こうものなら、校正者が、ご丁寧に「どうともすれば」などと訂正してくれるだろう。
私は――どうとでもしやがれ、と舌打ちしながら、「ひょっとすると」と書き直すだろうな。
先日、あるエッセイで――むずかしい原作を翻訳するときの私は、それこそ青息吐息、原文をにらみつけながら、
「訳もそぼろなそのうえに、作のかまえもただならぬ」とつぶやく。
と書いたら、校正では「訳もそぞろな」となっていた。あわてて「訳もそぼろな」と訂正した。これは、原作がとてもむずかしいうえ、私の訳は「そぼろ」(みすぼらしいありさま)というわけで、「東海道四谷怪談」の「お岩さん」の台詞、「なりもそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」のパロディ。
「お岩さん」は柱にとりすがって、「一念通さでおくものか」といい残して果てるのだが、翻訳者としては、途中で翻訳を投げ出すわけにはいかない。
こんなことを書いたせいか――先日、夜中に起きて、机の角に眉をぶつけ、ちいさな傷ができた。バンソウコウを貼っておいたが、眼の下にアザができて、「顔もそぼろなそのうえに、顔のかまえもただならぬ」ありさま。
せまじきものは、パロディだなあ。(笑)