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「夢十夜」や「硝子戸の中」などを読んでいろいろと考えたが、そうはいっても、私の考えたことは漱石研究者なら誰もが考える程度のことだろう。
そこで、おそらく誰も考えない(だろうと思う)ことを一つだけ。

「硝子戸の中」の最後に、こういう一節が出てくる。

猫が何処かで痛く噛まれた米噛(こめかみ)を日に曝して、温かそうに眠ってい
る。先刻まで庭でゴム風船をあげて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立って活動
写真へ行ってしまった。家も心もひっそりしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)と此稿を書き終るのである。
さうした後で、私は一寸(ちょっと)肘を曲げて、此縁側に一眠り眠る積(つも
り)である。

この文章が書かれたのは、大正4年2月14日。

この「猫」さんは、当然ながら「我輩は猫である」の「名前はまだない」猫さんではない。このネコだって、「我輩は猫である」の猫さんぐらいのことは考えたにちがいない。
私の考えたのは、もう少し別のことである。――子どもたちが「みんな連れ立って」見に行ってしまった活動写真は何だったのだろう?

大正4年(1915年)1月に公開されていた活動写真には、「空中戦」と「バイタグラフ」といった戦争活劇(2巻もの)がある。この2本はお正月映画で、2月には「アメリカン」の「海軍飛行家」(1巻もの)が封切られている。
現実に第一次世界大戦がはじまっている。世界は、いまや航空機の時代になっている。空中戦は、いわば空の一騎討ちで、日本人にとっては、まったくあたらしい戦闘形態だったはずである。そして、この2本は、実写もののドキュメンタリーだったのか。

当時はすでに世界大戦がはじまっている。まだ緒戦といってよい時期、日本人が戦争をそれほど身近に感じてはいなかったはずだが、漱石が、この戦争の帰趨に関心をもたなかったはずはない。

さて、ほかのお正月映画としては、「愛と王冠の為に」(3巻)、「赤ン坊のお守り」、「オーファン」、「彼女の覚醒」、「試験中の人」、「ブラックロックの電信技手」、「他の少女」、「マーフィーの静日」などが公開されている。
2月の中旬までに封切られたものに――「海軍飛行家」、「恋と電気」、「さやあて(小さき恋)」、「山中の捕虜」、「凋みつつある薔薇」など。

こうした映画の内容は想像するしかないのだが、漱石先生のお子さんたちは、「赤ン坊のお守り」、「恋と電気」といったスラップスティック・コメディーか、「愛と王冠の為に」のような冒険活劇を見たのか。あるいは、「オーファン」、「さやあて(小さき恋)」といった(現在のラブコメ)を見たのだろうか。

「硝子戸の中」を読んで、子どもたちが「連れ立って」見に行った活動写真は何だったのか、などと考えるのは私ぐらいのものだろう。酔狂な話だが。

「硝子戸の中」終章(三十九)は、日曜日で、漱石先生は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、「春はいつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」のを感じている。

蕩揺といったことばが自然に出てくるあたり、漱石さんの教養がうかがえる。
「蕩」は、もともと水面(みのも)が揺れること。それも、ゆぅらりゆらりと揺れ動く。「揺」がゆれるという意味だが、手で動かす。
「春風駘蕩」ぐらいなら私たちも使えることばだが、「心を蕩揺せしめる」といった表現は、私などにはとうてい出てこない。そもそもこういう感性がなくなっている。

ひょっとすると――庭でゴム風船をあげて騒いでいた子どもたちを眺めていたとき、漱石先生は自分の死さえも「いつしか私の心を蕩揺(とうよう)せしめる」ものとして見ていたのではないだろうか。