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フランスを舞台にしたアメリカ映画は、どうしてもフランスの風味が出せない。

わずかな例外として、「桃色の旅行鞄」(ルイス・アレン監督/1945年)や「巴里のアメリカ人」(ヴィンセント・ミネリ監督/1951年)、「ジャッカルの日」(フレッド・ジンネマン監督/1972年)あたりをあげておこう。
「桃色の旅行鞄」は、戦後すぐに公開されたパラマウント・コメディーだった。当時の私は何も知らなかったが、原作は、コーニリア・オーティス・スキナー。
主演したゲイル・ラッセルについては、はるか後年、短いモノグラフィーを書いた。これを読んだ作家の虫明 亜呂無がほめてくれたっけ。
「ジャッカルの日」はフランス/イギリス合作だから、アメリカ映画とはいえないかも知れないが。
パリを描いた最近の映画で、安心して見ていられるのは、ウディ・アレンの近作ぐらいのものだろう。さすがに「それでも恋するバルセロナ」の演出家だけのことはある。

それはとにかく――フランスを舞台にしたアメリカ映画の例にもれず、「ヒューゴー」には、パリの匂いなどどこにもない。
はじめから「巴里の屋根の下」を参考にしたなどといわなければいいのに。
もっとも、スコセッシにルネ・クレールの風味など期待するほうがおかしいけれど。

もともと、マーティン・スコセッシには、ルネ・クレールの「詩」といったものがまったく欠けている。
はじめから期待していなかったから、1930年の、シャンゼリゼからモンマルトル、あの界隈のカフェや、豪華なファッション・ブティック、劇場の並ぶブールヴァールといった風景が見られなくても不満があったわけではない。
せめて、「猫が行方不明」や「アメリ」にあふれているエスプリでもあれば、ずっとすばらしかったと思う。

この映画の駅も、モンパルナスでもなければ、ガール・デュ・リオンでもなく、まるで、ニューヨークのセントラル・ステーションのようだった。

駅をうろついて、カッパライを働く少年を追いかけまわす公安官をやったサシャ・バロン・コーエンは、完全にミス・キャスト。なんてヘタな役者だろう。「スウィニー・トッド」に出ていたらしいが、おぼえてもいない。

出演者のほとんどがイギリスの俳優、女優たちなので、ひどくアングロ・サクソンの匂いが立ちこめている。
こういう役なら、さしずめレイモン・コルデイ(「ル・ミリオン」)あたりにやらせたら、たちまちパリの気分が立ちこめてくる。30年代の俳優なら、ガストン・モドーあたり。「戦後」ならフェルナン・ルネ。もっと後年なら、ルイ・ド・フュネス。
フランスの役者なら、スクリーンに顔を出したとたんにパリの気分がひろがってくる。

父を亡くした少年の後見人になる、酔いどれの叔父さんをやったレイ・ウィンストン。
これも、「デヴィッド・カッパフィールド」に出てくる悪人のようだし、駅でコーヒーを楽しんでいるオジさん(リチャード・グリフィス)も、オバさん(フランシス・デ・ラ・トゥーア)もミス・キャストだなあ。

すぐれた舞台俳優でも、映画に出て、すぐれた演技をみせるとはかぎらない。不思議なものだと思う。

役者の悪口はいいたくないのだが、リチャード・グリフィスは、「フランス軍中尉の女」や「炎のランナー」の頃のほうがずっといい。この映画では、ロバート・モーリーそっくりのオジイさんになっているが、これがハンガリー出身のS・Z・ザコールあたりの役者だったら、珈琲を飲んでいるだけで、何かあたたかなパリの空気が流れてくる。
オバさんのフランシス・デ・ラ・トゥーアも、「アリス・イン・ワンダーランド」で見たが、こんな役なら、ミルドレッド・ダンノック、あるいは、スプリング・バイントンといったオバさんのほうがずっといい。
ようするに、この映画に出てくるワキの俳優たちは、まるっきりパリの匂いを持たない連中ばかり。
この映画で「パパ・ジョルジュ」をやっているベン・キングスレー、近くの古書店の主人(ブキニスト)をやっているクリストファー・リーは安心してみていられたが。

ベン・キングスレーは、「ガンジー」、「シンドラーのリスト」などで見ている。
この映画では、昔のオーブリー・スミスみたいな、いかめしいオジイさんをやっていたが、途中で、手品師のジョルジュ・メリエスに「変身」する。(映画のストーリーからいえば、手品師から映画監督に「変身」するわけだが。
(つづく)