現在の同人雑誌は、そこに発表されている作品の書き手も、その読者も、圧倒的に老人が多い、という。そうだろうなあ。
かつては、若くて無名の書き手が、同志と語らい、あいはかって、同人雑誌を創刊し、そこに自分たちの作品を発表する。誌面には、若者の鬱勃たる野心があふれていたものだが、今では、マンガの同人誌にそれが見られる程度で、文学の同人誌は老人たちのサロンと化している。
そこに発表されている作品も、定年後の生活や、自分史といった回想、あるいは、老後を迎えた消閑の趣味、または老年になってから海外に出かけた旅行記など。
むろん、いろいろな疾病の体験や、老々介護の明け暮れ、ときには、老いらくのロマンスなど。
文壇や、文芸誌にはついぞ登場しないのだが、老人文学もまた現代文学のひとつのジャンルと見ていい。
老人になれば、誰しも老後の生活や、自分の過去に目を向けるようになる。それを文学作品として表現する意欲をもっても当然で、非難される理由はない。
ただ、書いている本人が、世界の中心にいるような気で書いているとすれば、どうにも恰好がつかない。その滑稽さを描くなら別だが。
私のブログもそんなものの一つ。とはいえ、自分の病気の体験や、介護される明け暮れなどを書くつもりはない。老いらくの恋。これはいつか書きたいけれど、どうせフィクティアスな妄想になるのがオチ。はじめから私小説など書く気づかいはない。
老後を迎えての消閑の趣味は(映画の試写を見に行かなくなったため)DVDで好きな監督の映画を見ることぐらいか。公開されてもほとんど評判にならなかった映画、ハリウッドのどうしようもなく程度の低い映画を見て、思いがけない「発見」をしたり。
たまにAVも見る。驚くほどみごとな女の子を「発見」することもある。イタリア・ルネサンスの君主、ルドヴィーコ・イル・モーロに見せたら、さっそく「色道天下一流人」という感状を出すような美女たち。(感状という名詞がわからなかったら辞書で調べてください。)
俳句や、歌舞伎、遊女のことなど、これまで書く機会がなかったテーマも、ときどき書くつもり。ただし、まるっきり無趣味な男なので、何を書いたところでたいしておもしろいはずもないのだが。
老齢に達した作家が、晩年に書く作品では――藤枝 静男、古山 高麗雄、小島 信夫などの仕事を思い浮かべる。最近では、黒井 千次、三木 卓なども、つぎつぎにいい作品を書いている。こうした作家に共通するのは、自分の描く「老人」と、老齢に達した作家自信の距離がまったくないこと。作家としての修練が、そのままゆたかな人間観察に昇華しているあたりだろうか。
最近の古井 由吉の文章など、老齢の作家のなかでもじつにすばらしい。
私はまるで違うタイプ。いつまでたっても成熟しない、イトドの部類か。
ようするに、ボケた(トボケた)作家だねえ。(イトドの説明はあとで)
そんな男が自分史を書いたところでたいして意味もないのだが、あてどもなく放浪していた自分をおもしろおかしく描いてみたい。
私の読んだ最高の自分史は、スタンダールの「アンリ・ブリュラール」。最高の自伝の一つは、フローレンス・ナイチンゲールの「自伝」。