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串田 孫一さんが亡くなられた。(05.7.8)
戦時中の串田さんの「日記」に、わずか一か所だが、私の父親が出てくる。串田さんは慶応でフランス語を教えていた。私の父、昌夫は、そのクラスでフランス語を勉強していた。串田さんよりもずっと年長だった。父は、串田さんに心服していた。
昌夫は、若い頃フランス系の貿易会社に勤めたことがあったが、もともと英語が専門で、長年「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤務していた。戦時中に、旧仏領インドシナに行く予定で、フランス語のブラッシアップに串田さんのクラスに通ったらしい。
父は、串田さんの授業のすばらしさを私に話してくれた。そのせいで、串田 孫一さんの名は私にとって、ひどく身近なものになった。のちに私は文学者としての串田 孫一さんの著作を知ったが、いつも父のことばを思い出していた。
後年の私が登山に熱中したのも、語学を教えるようになったのも、串田 孫一という、自分では会うことのなかったひとにあやかりたいという思いがあったのかも知れない。