北上 次郎のエッセイについてもう少し書いておく。
この集英社文庫版の訳者あとがきに「ヒントンは、アメリカのYA小説を代表する一流作家です」とあるが、アメリカで発表されたのが一九六七年なら、一九七〇年代初頭にそのヤングアダルトという名称が日本に伝わったとしても不思議ではない。いや、まだ七〇年代説にこだわっているんですが。「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、翻訳前にその名前だけが新しい時代の空気として輸入されたということはなかったろうか。
一九七〇年前後といえば古い時代の規範がなくなり、新しい時代の到来を告げるさまざまなものがいっせいに浮上した時代である。新しもの好きな日本人が、アメリカの若者たちの台頭を告げるムーブメントの名称を使ったことは考えられる。実例を出さないかぎりすべては仮説に過ぎないのでしばらくは宿題にしておくが、とりあえずそのヒントンの「アウトサイダー」を読んでみた。
このエッセイのおかげで、私はS・E・ヒントンを訳した頃のことを思い出した。
一九七〇年代初頭にヤングアダルトという名称が日本に伝わったことはない。
たしかに、「アウトサイダー」が翻訳されたのは発表後十六年もたってからだが、私が翻訳する前に、「ヤングアダルト小説」という名前が新しい時代の空気として輸入されたことはなかった。はっきり断言してもいい。
翻訳の世界でも「ヤングアダルト小説」を翻訳しようなどと思った人はいなかったはずである。いたとしても、よほどのものずきと見られたに違いない。当時、アメリカのジュヴナイルものを出していたのは、秋元書房ぐらいのもので、それも「ヤングアダルト小説」という概念で出版していたわけではない。おもに中学生、女子高校生を対象にした「少女小説」、「青春小説」といった程度のものだった。
この出版社のシリーズで、私が注目した作家はモーリン・デイリーだけだった。(作家、ウィリアム・マッギヴァーン夫人である。)しかし、モーリン・デイリーでさえも、ごくふつうの「少女小説」といった程度のあつかいで、まったく評判にならなかった。
もう時効だから、書いておくのだが――「アウトサイダー」という作品は、私が翻訳するよりも前に、ある出版社が翻訳権を取得していた。これはハードカヴァーの出版権だった。その出版社は翻訳ものを多く出していたし、「アウトサイダー」の翻訳は、若い読者のための翻訳書で有名な翻訳家が手がけることになっていた。
集英社は後発、というかずっと出遅れていた。
コッポラがこの作品を映画化して、いよいよ日本でも公開されるときまってから、やっと翻訳権を交渉した。はじめから「コバルト文庫」に入れるために交渉したわけではなかった。たいして期待はしていなかったから、はじめからハードカヴァーで出すつもりではなかった。したがって、翻訳権の争奪といった事態はなかった。
「コバルト文庫」が私に翻訳の依頼をしてきたのは1982年7月末だった。
(つづく)