1349

昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いた。ある映画スターの話。
短いものだが、書きはじめてから、三年近くかかって、やっとなんとか書きあげた。その余波というか、まだ、心が揺れているような感じがある。
そこで、そのエッセイに書かなかった、別の女優さんの事を書いておこう。

アニタ・スチュワート。

この女優さんは、1895年、ブルックリン生まれ。義兄が「ヴァイタグラフ」の映画監督だったラルフ・インス。
映画通なら、この名前からピンとくるだろう。ラルフの兄はトーマス・インス。
これだけで、アニタが「ヴァイタグラフ」の女優になった事情も想像がつく。
「ヴァイタグラフ」が「ファースト・ナショナル」に買収されたため、アニタがそのまま「ファースト・ナショナル」の女優になったことも。

当時の「ファースト・ナショナル」は「パラマウント」と並ぶ大会社で、多数の美人女優を専属にしていた。チャップリンの最初の夫人、ミルドレッド・ハリス、非の打ち所のない美女といわれたキャスリン・マクダナルド、スリムで清楚なアニタ・スチュワート。

ルイス・B・メイヤーが、映画製作にのり出したのは、1917年。彼は、アニタ・スチュワートの映画のプロデュースをすることで、大プロデューサーの道を歩みはじめる。

日本で公開されたアニタの映画は、「懐かしのケンタッキー」(19年)から「誓いの白薔薇」、「運命の人形」(20年)まで、11本。当然、人気投票では、トップを争うスターだった。
ところが、アニタは突然、映画界を去る。第一次大戦が終わった。
1925年、ルイス・B・メイヤーはMGMの副社長になる。そして、フランスの映画監督、モーリス・トゥルヌールの映画、「東は東、西は西」にアニタを出演させた。

だが、アニタは自分が「戦後」の気分にあわなくなっていることに気がつく。
そして、引退。
いいねえ。女として、みごとな生きかたをつらぬいた。

こういういさぎよいスターもいる。

なぜ、こんなことを書いておくのか、って?

昨日までかかって、やっと1編、エッセイを書いたから。もう、何を書いたか、すっかり忘れているのだが。(笑)