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新年になった。今年も「コージートーク」に何か書ければ書いてみたい。

友人の安東 つとむのおかげで――このところ短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。

グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイなとについて。つい先日、ヴィルマ・バンキイを書いたが、これからも、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルッソンなどについて書くつもり。

どうして、こんなものを書いておくのか。

かつて有名だったスターたちの生涯を見直していると――青春期と名声がいっぺんに重なってやってくることの重さ、といったことを考えさせられる。
ふつうの女性には、青春と名声が雪崩をうってやってくる、といったことはない。大抵の職業では、名声がやってくるのは、ある程度、長い修行をへて、はじめて名声を得るわけで、少数のすぐれた芸能人や、ごく一部の芸術家などが、例外的に、名声を獲得するだけのことだろう。

若い娘たちは、生きていること自体で、名声など必要としない、ありあまるほどのオドール・デ・フェミナをもっている。それが青春というものだろう。
老齢になったスターたちを想像してみるがいい。
冬枯れの樹木のように、ありとあらゆる快楽、歓喜が枯れ果てたあと、彼女が不死鳥のように生きさせるのは、名声なのである。
こんなことばがある。

 老齢になって、自分がみずからの青春時代の力を、ともに老いることのない作品に統一したということ、これ以上美しい慰めはない。

ショーペンハウェルのまわりくどい思弁が続くのだが、私の考えはいくらかショーペンハウェルに近い。

オリーヴ・トーマスは、パリで思わぬ悲劇に見舞われる。
メアリ・マイルズ・ミンターは、殺人事件に巻き込まれる。
バーバラ・ラ・マールは、麻薬とセックスにおぼれて死ぬ。
ジョーン・クローフォードは、売春婦だったが、スターになってから暴露された。
ルーペ・ベレスは、セックスに狂奔して死ぬ。
ラナ・ターナーはギャング相手のセックスを録音され、娘がその相手を殺害する。

サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。
おなじように、私が読みつづけてきたすぐれた短編小説群も、不滅のものではない。
もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私にとっては同じことなのだ。老齢になって、みずからの青春時代の力を、ともに老いることのない存在に重ねあわせる。つまりは私の精神がまだ死んでいないことの証(あかし)なのである。