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 2011年、最後の挨拶。

 2011年3月11日。
 宮城県沖、約130キロの海底を震源とする巨大な地震が発生した。マグニチュード、9.0。千年に一度の大地震という。震度、7。
 遠く離れた千葉に住む私の部屋でも、棚の本が落ちたり、その上にテレビがころがったり、色々なものが散乱した。

 そして、岩手、宮城、福島の太平洋沿岸を中心に、波高が10メートルを越す巨大な津波が襲いかかった。この津波は、三県の市町村に壊滅的な被害をおよぼした。死者、行方不明、あわせて2万という悲劇をもたらした。

 さらなる恐怖はその直後にやってきた。
 巨大津波は、東京電力の福島第一原子力発電所に襲いかかり、原子炉が破損し、いわゆるメルトダウンがおきて、たいへんな量の放射能が飛散した。
 その後の、東京電力、および、菅 直人を首相とする内閣の判断の誤り、対応の遅れ、ことごとく杜撰、遺漏ばかりだったため、私たちの現在の悲惨に至っている。

 12月22日に発表された「事故調査・検証委員会」の中間報告に、私たちは、戦慄をおぼえた。

 事故当日、政府首脳は、菅 直人をはじめ、主要閣僚は、官邸5階の執務室にいた。
 大震災発生後に、官邸地下の「危機管理センター」に、各省庁の幹部による緊急グループが参集していた。
 ところが、「内閣」は、5階にいた一部の省庁の幹部の意見(むろん、電力、原子力の専門家ではない連中)や、「東電」の情報、意見だけを参考にして、この事故の対応の決定がなされた。

 そして、官邸5階の「内閣」は、放射能拡散予測システム「SPEEDI」が存在することさえ、知らなかったという。このシステム「SPEEDI」のデータがあれば、被災地の住民の避難は、もっと適切にできたという。

 「SPEEDI」がうまく働かなかった理由は――「文部科学省」と「原子力安全委員会」の間で、どちらに責任の所在があるのか不明だったせいという。
 しかも、官邸5階に「文部科学省」の幹部がいなかった。

 ようするに、大震災発生後の「内閣」は官邸地下の「危機管理センター」にほとんど何も連絡しなかったということになる。

 これが、もし、東京でおなじ規模の大地震が起きたら、どうするのか。
 地上5階のエレベーターは運転を停止するかも知れない。あるいは、ビルが倒壊すれば、地下の「危機管理センター」も機能しなくなるかも知れない。

 もっとおそろしい事態も「想定」しておくべきである。

 某国に内乱が起きて、指導層が国民の眼をそらせるために、ミサイルを発射したら、どうなるか。

 私は、2011 年の最大の教訓は、「事故調査・検証委員会」の中間報告にあると思う。
 この中には、日本人とは何かという問いと、私たちが読み解く必要のある情報がいっぱい出ている。

 それではみなさん、よい御年を。