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この師走、ずっと続けてきた「文学講座」を終了した。
私にとっては、この最終講義が、生涯最後のパーフォーマンスということになる。さすがに出席者も多く、私としてはうれしいかぎりだった。

最終講義でも話したことだが――私がやっと30代になったばかりの頃、先輩の批評家、福田 恆存に、 「中田君、きみ、文学史の書き換えをやってみたら?」
といわれた。
当時の私に、そんな大それた仕事が出来るはずもなく、そのときから数十年もたってから、「文学講座」というかたちで、私なりに文学史の整理をやってみようと思いたったのだった。私としては力をそそいだつもりだが、結果としては、自分が思い描いたことの半分も語ることが出来ずに終わってしまった。
それでも、福田 恆存に対する感謝を忘れてはいない。

私は、毎回、特定の作家をとりあげて、明治初年の頃から、現代の三島 由紀夫、安部 公房あたりまで、いわば文学史の見直しといったレクチュアをおこなった。残念ながら、戦後の、植草 甚一、飯島 正、荻 昌弘などの映画批評家をとりあげたところで、思わぬ事故を起こしたため、一年近く「講座」を中断した。
そして、ついに今回の最終講義という次第になった。

私の講義は、まったくの偏見、独断にみちたもので、たとえば、志賀 直哉、武者小路 実篤に一顧も与えず、長与 善郎、中 勘助をとりあげる。横光 利一の「上海」をみとめず、村松 梢風の「上海」を昭和期の傑作とする。
おなじように、宮本 百合子よりも、中本 たか子、矢田 津世子、尾崎 翠を論じ、中野 重治は敬遠して、葉山 嘉樹、高見 順をとりあげ、一方で小栗 虫太郎、山本 周五郎を論じるという破格のものになった。
戦時中の「狂気」や「いやだよ重労働」といった連中にもふれた。(笑)

最終講義は、特別なテーマもきめない、まことに気楽なものだった。

このあと、近くのレストランで、ささやかな送別会のような宴をもったが、これも楽しい集まりになった。
私の「文学講座」を企画し、最後までささえつづけてくれた安東 つとむ、真喜志 順子夫妻、そして、田栗 美奈子のみなさんにあらためて感謝している。

じつは、今年の私は、初夏に、おなじようにささやかな集まりをもった。
このときも、私の親しい友人たちが、遠足のようなお散歩のために集まってくれたのだが、この「遠足」の趣旨は、ある石碑を皆さんに見ていただくことが目的だった。

私の墓に案内したのだった。この墓地に、小さな石碑が建てられて、

たまゆらの いのちのきわみ ゆめのごと
季節(とき)のながれと 花のうつろい

私のつたない偈のごときものが刻まれている。これでおわかりいただけたはずだが、これは私の生前葬のつもりであった。
この夏、私の墓に詣でてくれたなかには、師走、あらためて私の最終講義に出てくれた人も多い。私としては、その一人ひとりにあらためて感謝している。

私のクラスで、勉強をつづけてきた人ばかりだった。その人々と、私はふたたび会うことはないだろう。だが、きみたちと出会ったことが、私の人生をかたち作ったと思っている。
あらためて、みなさん一人ひとりに心から感謝したい。