■有吉 佐和子のこと
「江口の里」のなかで、ヒロインの芸者が舞踊劇、「時雨西行」を演じる。
……春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河竹の、うき節しげき契りゆゑ……
この一節を読むと、なぜか有吉 佐和子の世界がまざまざと眼のなかに浮かんでくる。
有吉 佐和子は、昭和6年、和歌山市に生まれた。
父の転任で、小学校だけで5回も転校した。病気がちだったため、女学校でも5回も転校した。少女の頃から、これほど各地を転々とした作家はめずらしい。戦後、東京女子大に入っても、病気のため一年休学したが、父の急逝もあって、短大に移った。卒業前に、「演劇界」の編集をしたり、出版社につとめたり、舞踊家、吾妻徳穂が、戦後、アメリカで公演した「アズマ・カブキ」のブロードウェイ公演では、事務を担当したり、演出も引受けたり秘書としてアメリカ人と交渉した。
有吉 佐和子は、本質的に「移動」する作家である。
戦後すぐに、作家をめざした有吉 佐和子は、第十五次「新思潮」に参加した。この雑誌に発表した作品を改稿したのが『地唄』である。ほかの作家と違って、有吉 佐和子は、日本の伝統的な芸の世界と、あたらしい教養の世界の隔たりを描きつづけた。
「江口の里」もその一つだが、『人形浄瑠璃』(昭和33年)や、花柳界の愛憎を描いた『香華(こうげ)』(昭和36~37年)など、どの作品にも「春の朝(あした)に花咲いて、色なす山の粧(よそほひ)も、秋の夕べに紅葉して、月に寄せ、問い来る人も河竹の、うき節しげき契りゆゑ」というテーマが見え隠れしている。
この作家が好んで職人、芸人の世界、伝統的な芸の世界に眼をむけたのは、ただのロマンティックな憧憬だったのだろうか。むしろ、かつてあったものを描くことで、じつは私たちの未来に属しているいきいきとした世界を見せようとしたのではなかったか。
もっと大きなことは――関西ことばをふくめて、日本語の美しさ、深さのなかで、作家としての自分自身にめざめたことだった。
有吉 佐和子が意識して四季の移りかわりや、伝統的な芸の完成に自分の運命をかさねたかどうかわからない。しかし、彼女は、そうした運命を予感するように、自分のテーマを深めていった作家だった。
『三婆』(昭和36年)のラストで、「駒代」の耄碌ぶりから、おそらく有吉 佐和子は、花のように美しく、しかし、衰えてゆく姿をいつか書きたいとおもっていたと思われる。これがもっとも早く高齢化社会を描いた『恍惚の人』(昭和47年)に発展してゆく。
和歌山に生まれた作家は、やがて母の故郷、紀州を舞台に家族の年代記ともいうべき『紀の川』(昭和34年)、『有田川』(昭和38年)、『日高川』(昭和40年)という紀州三川物語を描く。こうした年代記は、『助左衛門四代記』(昭和37~38年)で完成するが、ここで描かれる木本家は母の実家である。
年代記作家としての有吉 佐和子は、さらに歴史への関心に移ってゆく。『華岡青洲の妻』(昭和41年)、『出雲の阿国』、さらには、『和宮様御留』などの歴史小説は、女主人公の「移転」と、「契り」をテーマにしている。
一方では、それまで私たちがまったく知らなかった、もう一つの世界が作家をとらえはじめる。公害問題に先鞭をつけた『複合汚染』や、黒人問題をとりあげた「非色」といった社会的な問題小説の世界である。『恍惚の人』が、老いさらばえ、ついには人格崩壊にまで至る人間の無残さを描いたというより、そうした悲劇さえ「河竹の、うき節しげき契り」と見た。『非色』は、アメリカ社会に見られる肌の色による差別というだけでなく、むしろ伝統のいのちの問題としてとらえていたのだった。
有吉 佐和子が亡くなってから二十年以上になる。
……江口の里の黄昏に、迷いの色は捨てしかど、濡るる時雨に忍びかね賤(しづ)の軒場に佇みて、ひと夜の宿り乞ひければ、主(あるじ)と見えし遊び女が……
こうしたテーマが、彼女の作品群のどこかに響いている。そう見てくると、有吉 佐和子は、日本の文学史にあらわれたもっともダイナミックな女流作家のひとりなのである。