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少し長生きしすぎた。よくもこれだけ長く生きてきたと思う。

つまらない人生を長く生きてきただけが取り柄かも。

八十年の生涯にすべてを知りつくしたなどとは、口が裂けてもいえない。ただし、私はもはやおのれの人生に何も求めてはいないし、何も願ってはいない。

人生観を問われても、まともに答えられないというのが正直のところ。

目下のところ――江戸の三文作家で、のちに出家して禅を説いた鈴木 正三(すずき しょうさん)に近いものを覚えている。
鈴木 正三はいう。

   年月は重り候へども、楽みは無して、苦患は次第に多く積るに非や、
   (としつきはかさなりそうらえども たのしみは なくして、くげんは しだいに おおくつもるにあらずや)

 

自分も齢を重ねてきて、歳月とはそういうものだと思う。
私は、「人生の真実は寂寞の底に沈んで初めて之を見るであらう」とする永井 荷風にしたがう。寂寞とは何か。もしも「四月は残酷な月」ならば、五月も、六月も、夏も秋も、まして冬もそれぞれに残酷な季節であることに変わりはない。それが、寂寞というものなのだ。
はたまた、鈴木 正三はいう。

 

   人間の一生程、たはけたる物なし。

 

こういう思いから、鈴木 正三は浄土を欣求(ごんぐ)したに違いない。

 

私は楽みはなく、苦患は次第に多く積ることを覚悟しているだけである。