渡辺 温を読んでいて驚かされるのは――発想が、きわめてサイレント映画的なことである。それも、当時の演劇(小山内 薫がめざした「築地小劇場」など)がもっていたスタイル(柔軟性の少ない、それも因習的なスタイル)をはなれて、はるかに映画的な小説スタイルを導入していたことと無関係ではない。
小山内 薫は、映画の演出に意欲を見せたが、映画表現に知識がなく、せいぜい舞台の実写といった程度で終わり、技術的にも失敗した。
渡辺 温の「影」に対しても、どちらかといえば否定的な評価をもったが、谷崎 潤一郎が積極的に推したという。
温の発想が、はじめからサイレント映画的だったことと、温が、生まれつきミステリーや、恐怖を基調とするストーリー・テラーであること(スポンタネイテイ)を見抜いたからだろう。このあたり、谷崎の炯眼は、小山内 薫のおよぶところではなかった。
温が、ウェルナー・クラウス、コンラッド・ファイトといったドイツの俳優にしばしば言及していることも、私には、温の好み、と同時に、温のつよい自己主張を想像させる。
「学校を出ると直ぐ活動屋になるのが望みで、それも「カリガリ博士の箪笥」か何かに訳もなく感動させられて」(「或る風景映画の話」)という記述がある。
「カリガリ博士」は、恐怖と狂気を描いた映画作品で、映像化された悪夢といってよい。主人公は、自分の仇を殺害するために、催眠術による霊媒を駆使する。ストーリーは精神病院ではじまり、精神病院で終わる。こうした枠組は、この時代の精神状況にまさにコレスポンド(照応)していたものといってよい。
渡辺 温の代表作というべき「アンドロギュノスの裔」の冒頭は、
……曽て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、ひとりの魔法を使う女が住んでいた。彼女は自分が想いを懸けた時には、その男の髪の毛を、或る草と一
緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼く事に依って、どんな男をでも、自分の寝床に誘い込むことが出来た。
ところが、或る日のこと、彼女はひとりの若者を見染めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革嚢から毟り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革嚢が街を横切って、魔女の扉口迄飛んで来たと云うことである。
頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。
魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。
ふつうの場合、温は、大正時代に猖獗をきわめた表現派、ダダイズム、未来派、シュール・レアリズムなどの流れの中でとらえられる。しかし、私は、温を、そうしたエコールの作家とは見ない。新感覚派の作家ではなく、もっとずっとスマートな作家ではないか。
「アンドロギュノスの裔」のオープニングで、アナトール・フランスという外国の作家に刺激されて、自分の想像を展開させている、と見れば、なんの変哲もないが、このオープニングが、恐怖というアンダートーンを帯びていること、しかも、なにやらユーモラスに物語を展開してゆく手つきに渡辺 温のシネマトゥルギーといったものを感じる。
むろん、そう思う私の内面には、古き良き時代にこういう物語を紡いでいた若い作家に対する羨望がひそんでいるだろう。
(つづく)