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「すばらしい墜落」のなかで、もっとも好きな短編を選ぶというのはむずかしい。
私は、「選択」を、その一つに選ぶだろう。

大学院で修士論文の準備をしている学生、「デイヴ」は、求人広告を見て、大学進学をめざしている少女の家庭教師になる。
彼を迎えたミン家の当主、「アイリーン」は、魅力のある若い未亡人で、小さな出版社を経営している。教える相手の少女、「サミ」は17歳で、思ったよりずっと利発な子だった。

「デイヴ」は、大学院の授業があるので、夜しか教えにこられない。やがて、「デイヴ」は「アイリーン」の手づくりの家庭料理を、母娘といっしょにたべるようになる。

こういう大学生を描いた青春小説は、いくらでもある。しかし、ラヨシュ・ジラヒの「瀕死の春」、セバスチャン・ジャプリゾの「出発」、ジョナサン・コゾルの「罌粟の匂い」のような傑作はすくない。

 

ここまで書いてきたとき、作家の楊 逸(ヤン・イー)の書評が出た。(「朝日」5.22。)

ニューヨークにはフラッシングという町があるという。そこに、まずしい留学
生をはじめ裕福なインテリや会社員、小金持ちの老人やその介護をするおばさ
ん、寺のお坊さんから若い売春婦まで、さまざまな中国系移民が生活している。
忍耐つよくがむしゃらに生きる彼らの姿を覗かせてくれるのがこの短編集だ。

こういう書き出しで、作家らしい見方を展開している。
私は、この書評を読んでうれしかった。
こういう書評がでたのだから、私ごときが、つまらない読後感を書きつづける必要もない。もともと、これほどいい作品集なのに、どこにも書評が出ないことにいささか伎癢(ぎよう)の念をおぼえて、とりあげたのだった。
私は、台湾の「時報文化出版」の原作を送ってもらって、それぞれの原文と日本訳を照合しながら読んだのだった。
立石 光子の訳は、ほんとうにみごとな訳で、その苦心のほどがうかがえるものだった。
そして、 こういう情理をつくした書評が出たことを、訳者のためによろこんでいる。

私のブログは、ここで中断。いずれまた、そう遠くない時期にハ・ジンについて語ることもあるだろう。