友人の安東 つとむのおかげで――この1年、短いエッセイを書きつづけている。いまではもう誰ひとり思い出すこともないサイレント映画のスターたちのことを。
グレタ・ガルボは別格だが、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ビーヴ・ダニエルズ、オリーヴ・トーマス、コリーン・ムア、メェ・マレイ、リアトリス・ジョイとかについて。これから書くのは、たぶん、メァリ・ブライアンか、アンナ・Q・ニルツソンあたり。
どうして、こんなものを書いておくのか。
すぐれた短編小説を読む。そうした作品は、私たちの関心を惹きつけるが、そこに描かれている人たち、たいていの場合は、一度も会ったことのない種類の人たちに対して、なぜかひどく親しい感情をおぼえるような気がする。
よほどすぐれた短編でもないかぎり、その作品が作者の死後もなお生きつづけることはない。その短編の思い出は、その時代の人々の記憶とともに消え去ってしまう。「戦後」の名作といわれた作品でさえ、たかだか半世紀も経ってしまうと、ほとんどがどこかに消えてしまう。
すぐれた短編小説を読んで感動した、私たちの思いは、かつて私たちのあこがれ、ひそかな欲望の対象だったスクリーンの女優たちに、私たちをむすびつけていた思いと同様に、いつしか過ぎ去ってしまう。
私が、いつも感嘆を惜しまなかった、みごとな短編小説の数々。
アンソロジーを作ってみようか。
たとえば、「白い象に似た丘」、「ミリアム」、「ガラスの鐘の下で」……
私の好きなアナイス・ニン、アーシュラ・ヒージ、ジャマイカ・キンケードたちの短編から選ぶとしても、サテ、どの一編を選んでいいか。
そして、また、もはや古典というべき――「たそがれの恋」、「チリの地震」、オイゲン・ヴインクラーの「島」など。
ロシア、フランスとなれば、たちまちあげきれないほどの数の短編小説がうかんでくる。
そのリストのなかに、私は、ハ・ジンの一編をくわえておきたい。
サイレント映画の女優たちはけっして不滅の存在ではなかった。おなじように、私が読みつづけてきた短編小説たちも、不滅のものではない。だが、もう誰も思い出すことのないサイレント映画のスターたちのことを考えることも、折りにふれてかつてのすぐれた短編小説を心のなかに喚び起すのも、じつは私たちの精神が死んでいないことの証(あかし)なのである。
今はもう誰ひとり思い起こす人もいない女たちのことを書いておきたい。