つい先日、五月になったという文章を書いた。
大地震、津波、福島の原発事故、そして被災したひとびとのことを考えると、くだらない閑文字を並べるなど申し訳ない気がする。
そして、いつの間にか六月になっちまったなあ。
ありとも知られぬからたちの花白くあらく、小雨そぼ降る朝の井戸に、水汲む女
の傘ささぬが目につきと、はね釣瓶はね釣瓶と暫しは繰返したれど、口には出で
ず遂に止みたり。後、谷中を過ぎて、
むらさきの豆の花咲く垣根哉
明治31年、斉藤 緑雨の句。
いいなあ。しばし、この句を口にして、初夏の季節を楽しんだ。
斉藤 緑雨については「文学講座」で講じたが、まともに「斉藤 緑雨論」を書く機会はなかった。
私は、五木 寛之の推輓で、鈴鹿の「斉藤緑雨文学賞」の審査にあたった時期があって、いつか「斉藤 緑雨論」めいたものを書く機会をと念願しているのだが、いまだそれは果たしていない。
しかし、斉藤 緑雨は、いつしか私にとっては身近な存在となってきて、その作品に親しむことが多くなっている。
批評家、緑雨は毒舌をもって知られるが、余技たるべき俳句もみごとなものが多い。
五月雨や お手紙まさに拝見す
夏の月 誰れ彼れいはず美しき
木枯(こがらし)や 夕日突き抜く 塔の先
菊枯れて 黒き手筥の ほこり哉
菊枯れて 庭に炭ひく あるじ哉
月痩せて 露の白菊 枯れにけり
枯れ菊の 沓脱ぎ石に置かれけり
おぼろおぼろ 花降りかかる三の糸
枝折戸(しおりど)の闇を さくらのそっと散る
散るさくら 散らずばおれが 散らそうか
ゆうに子規に比肩し、虚子にすぐれること、数等。