私は、西島 大の芝居の演出に失敗した。
この失敗もあって、私はやがて「青年座」から離れた。その後、西島 大は映画のシナリオで成功した。一方、私はほかの劇団でいろいろと演出したが、やがて「鷹の会」という小劇団を作った。この時期から悪戦苦闘がつづいた。
お互いの「環境」(ミリュー)が、ひどく違ってしまったのだから、私たちが疎遠になったのも当然だったろう。
私は、その後、小説を書いたり、やがてイタリア・ルネサンスの世界に足を踏み入れることになった。
私は自分の世界を築くことしか考えなかった。
だから、劇作家としての西島 大がどういう仕事をしているか、まったく関心をもたなかった。
長い歳月をへだてて、西島 大と再会したのは、かつて共通の友人だった鈴木 八郎(劇作家)が亡くなって、そのお通夜の席だった。
鈴木 八郎はついに無名の劇作家でおわったが、女流劇作家、若城 希伊子と親しかった。私は若城さんの芝居を演出したこともあって、ずっと親しくしていた。これも共通の友人だった鈴木 八郎が亡くなったので、若城さんといっしょにお通夜に行った。その席で西島 大と再会したのだった。
その晩、西島 大、若城 希伊子とつれだって、近くの居酒屋で酒を酌み交わしたのだが、鈴木 八郎が無名の劇作家でおわったことから、西島はしみじみと、
「中田もおれも、えらくなれなかったなあ」
といった。
「うん、お互いにえらくなれなかったなあ」
当時の私は、評伝『ルイ・ジュヴェ』を書くために悪戦苦闘していた。
「あら、西島さん、知らないの? 中田さんは、ルネサンスの本を出したりして、えらいのよ」
若城さんはいった。
「へえ、そうかあ」
そのあと西島は、テレビの仕事で、ローマに行ったことを話した。たまたま、書店でブリューゲルの画集を買った。むろんイタリア語なので解説は読めない。
「中田君にあげるよ」
しばらくして、ブリューゲルの画集が送られてきた。
さらに後年。ある時期から、西島 大、若城 希伊子、私の三人が、もちまわりで内村 直也先生の誕生日をお祝いする集まりをもつことになった。
その年の幹事が、会場、ゲストをきめて、内村さんを囲み、一夕、楽しく歓談するという集まりだった。けっこう、いろいろな趣向をこらして、内村さんをよろこばせた。
西島 大が幹事の年は、赤坂の料亭で、女優の富士 真奈美がきてくれたこともある。
西島が声をかければ、「青年座」の女優たちもよろこんできてくれたと思うが、私が「青年座」をやめているだけに西島 大が遠慮したのではないだろうか。
若城さんが幹事の年には、慶応関係の人たちが招かれた。内村さんが、慶応の出身だからだった。
私が幹事の年には、内村さんに私のクラスの女の子たちを紹介した。後年、一流の翻訳家になった羽田 詩津子、成田 朱美、早川 麻百合、大久保 庸子、作家になった長井 裕美子、バレリーナになった尾崎 梓、シャーロッキアンの籠味 縁たち。
内村さんは、若い女の子に囲まれて、すこぶる上機嫌だった。
1979年、内村先生が亡くなられて、この集まりは自然消滅した。
若城 希伊子は、1999年、私の『ルイ・ジュヴェ』の出版の直前に亡くなっている
西島は『ルイ・ジュヴェ』を、おもしろく読んだというハガキをくれた。
その西島 大は昨年(2010年)に亡くなっている。
後年、作家になった長井 裕美子も、2008年に亡くなっている。
ジャン・コクトオのことばをかりていえば――こうして私の生きる航路の船のブリッジから、しだいに人影が消えてゆく。