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大畑 靖のことから、昔の友人たちのことを思い出した。
すでに鬼籍に移った仲間たちのことを。

たとえば、鈴木 八郎。

1940年(昭和15年)、22歳のとき、内村 直也先生の薫陶を得た。
太平洋戦争で、1943年、アリューシャンのキスカ島に派遣されたが、アッツ島の守備隊が玉砕したあと、キスカを撤退した。
ただし、私たちはお互いの戦争体験をついに語りあったことはない。私はいっさい口にしなかったし、鈴木 八郎も自分の戦争体験を語ったことがない。だから、彼の体験は、鈴木 八郎の文学仲間だった若城 希伊子から聞いた。
はるか後年(1969年)から、キスカ駐留の軍隊生活を小説に書くようになる。「馬と善行章」、「精霊とんぼと軍隊」、「草づたう朝の蛍よ」、「四日間の休暇」など。
しかし、これらの作品はついに未発表のままに終わった。

私が鈴木 八郎に会ったのは、1948年の早春。銀座の小料理屋の二階。
銀座の復興はめざましかったが、築地、八丁堀、京橋界隈は無残な焼け跡が残っていた。食料の不足がつづいて、人心の荒廃が、戦後の不安が色濃く残っていた時期だった。
この席では、お茶の一杯も出なかった。

戦前、継続的に出ていた演劇雑誌、「劇作」が、菅原 卓、内村 直也を中心に復刊をめざしていた頃で、戦後演劇の研究会のような集まりだった。
この席に、劇作家、田中 千禾夫、川口 一郎、小山 祐士、翻訳家の原 千代海がいた。ほかに、「文学座」の芥川 比呂志、慶応の芝居仲間だった梅田 晴夫。
私はいちばん末輩だったが、この集まりで内村 直也先生から鈴木 八郎を紹介されたのだった。鈴木 八郎、32歳。中田 耕治、21歳。

やがて、青山の内村 直也先生の邸宅の一室で、毎月、戯曲研究会が催されて、鈴木 八郎はその集まりの有力なメンバーだった。
この戯曲研究会から、戯曲中心の同人誌「フィガロ」が生まれた。
私は、おもに「近代文学」、「三田文学」に批評を書くようになっていたので、この戯曲研究会には顔を出さなかった。劇作志望でもなかったので、「フィガロ」にも関係しなかった  。

「フィガロ」創刊当時の同人は、鈴木 八郎はじめ、蟻川 茂男(後年、TBSの芸能プロデューサー)<三国 一朗(TVのパーソナリティー)、三寿 満(劇作家)、西島 大、若城 希伊子たちだった。
しばらくして、慶応出身の藤掛 悦需が参加する。劇作家、加藤 道夫、放送作家、梅田 晴夫の仲間だった。

私は、鈴木 八郎とは親しくなったし、内村 直也先生を通じて、西島  大、若城 希伊子を知って、「フィガロ」にイラストを描くようになった。
翌年、1940年(昭和15年)10月、NHKで、内村 直也先生が連続放送劇、「えり子とともに」を書くことになって、私はスタッフ・ライターのひとりに起用された。
ほぼ同時期に、西島 大が、内村先生の口述筆記をするようになっていた。
(あとで知ったのだが、内村先生は、西島 大にフランス語を勉強させるつもりで援助なさっていた。西島は、フランス語のかわりに、もっぱら居酒屋などで勉強していた。)

私は先生から毎月ポケットマネーを頂戴していたが、まるで無能なライターだったから、先生の期待を裏切った。
この時期の私は、才能もなかったし、ろくに勉強もしなかった。だから、大学の英文科に舞い戻ったのだが、講師になっていた加藤 道夫が、私をつかまえて、
「きみ、大学に戻ったんだって?」
と声をかけてくれた。
私は、批評家にもなれず、芝居の世界でも無名のままだった自分を恥じた。

大学に戻ったのは、ほかにすることもなかったし、内村先生から経済的な援助を頂いていたからだった。大学に戻っても、教室にはほとんど出なかった。アメリカ兵の読み捨てたポケットブックを買いあさって、一日に1冊は読みあげることにしていた。大学の教室には出なかったから、英文学の講義もろくに聞かなかった。
大学ではいつも研究室にたむろして、助手になった覚正 定夫(後年の映画評論家、柾木 恭介)、小川 茂久(後年、仏文の教授)、木村 礎(後年、学長になった)たちとダベっていた。だから、先生たちも私は学生ではなく、どこかの科の助手か何かだと思っていたらしい。

私が酒の味を知るようになったのは、まず鈴木 八郎、西島 大、そして、私が学生として大学に戻ったとき、すでに仏文研究室の助手になっていた小川 茂久だった。
戦後すぐに、ある雑誌で西村 孝次にやつつけられたことがある。数年後、大学の研究室でぶらぶらしていた頃、雑談しながら、
「じつは先生にやっつけられたことがあります」
というと、西村 孝次が驚いて、
「きみをやっつけたって?」
「中田 耕治といいます」
西村 孝次は驚いた顔になった。
その後、私は西村 孝次のクラスで少し勉強した。ときどき、神保町の「あくね」で、いっしょに酒を飲んだこともある。そういうときは、西村 孝次を先生などと思わなかったし、西村さんも私をもの書きとして扱ってくれた。おもしろい先生だった。
(つづく)