私の母、中田 宇免(うめ)は、昭和51年2月8日に亡くなっている。享年、68歳であった。
父の昌夫が亡くなったあと、母は私の住んでいる千葉に移った。私の家から歩いて十分足らずのアパートでひとり暮らしをするようになった。空地を庭にして、いろいろな植物を育てるのが趣味になったし、すぐ近くに大きな病院があるので、急病の際にも安心だった。
この冬の寒さのせいか、ときどき、心臓発作を起すようになった。
この8日の深夜、母から電話で、また発作を起した、と知らせてきた。私はすぐに駆けつけたが、母のようすを見ただけで、今回の発作はただごとではないと思った。
すぐに救急車を手配したが、すぐ近くの国立病院の担当医は、自分たちでは対応できないと判断した。
消防署員はつぎつぎに別の病院に連絡したが、深夜だったためか、どこの病院も急患の受入れを拒否した。やっと一つ、労災病院の許可がとれて、救急車はそちらに向った。
私は母につききりで、救急車の中にいたのだが、消灯のために母の顔はやっと見わけられる程度だった。母は苦しんでいた。
私は母の手を握りしめながら、
「お母さん、お母さん」
と必死に呼びかけていた。
ふと母が眼を開いて、じっと私を見ていたが、つぶやくように、
「ここはどこ?」
と訊いた。
それが最後のことばだった。
労災病院に到着したとき、すでに母は死亡していた。
母の死によって、私は大きな打撃をうけた。母は、私の日常にかかわりをもつ存在というより、私の内部にある何か永遠なるものだった。
私がルイ・ジュヴェの評伝を書いた動機の一つは――私の母が、ジュヴェの熱心なファンだったからである。
もう一つ。
私が、百年も前のアメリカの無名作家の作品を訳したのは、ヒロインの名が「お梅さん」だったことによる。
ほとんど知られていないこの女流作家の作品を、ヨネ・ノグチが読み、永井荷風が読んだというだけの理由で翻訳を思いたったのだが、このヒロイン、「お梅さん」に、どこか、宇免に近いものを感じたせいでもあった。