湯浅 真沙子の歌は、まぎれもなく「戦後」の混乱と、庶民の貧しい生活から生まれたものである。彼女の歌は、当時の左翼の「歌声よ よみがえれ」などとは、まったく無縁だった。彼女は、戦後の混乱のなかで、めぐりあった夫を愛し、はじめて知った性愛を深めてゆく。
彼女の歌には、女としてのよろこびがあふれている。まだ、ロレンスも、ヘンリー・ミラーも、ましてサドが、裁判にかけられることなど想像もしなかった時代であった。オーガズムということばさえ知られていなかった時代に自然に女のセックスを歌いあげた。そのことに、彼女の短歌の存在理由、価値がある。
歌人にとって、性愛はどういうものだったか。
いかにせん かのたまゆらは 髪みだし 狂ひて 君の頬をば噛みにし
こころよく死ぬるここちのつづくとき 吾は知らじな泣きてありしと
朝あけに君なつかしむ わが床に乱れて散りし 桜紙かな
旅の宿に隣りにきこゆ もの音に 吾らほほえみ抱き合ふ床
五月野の晴れたるごとき爽やかさ 情欲(おもひ)充たせしあとの疲れに
ここに歌われているのは、ひたすらな性のよろこび、オーガスミックな発見といったものではない。平凡な主婦のごくつつましい官能のめざめ、性に対する好奇心、その充足の感動というべきだろう。
戦後に、中城 ふみ子、葛原 妙子、大西 民子、河野 愛子、河野 裕子、鳥海 昭子、浅野 美恵子など、多彩な女流歌人が登場したが、湯浅 真沙子は、こうした歌人たちとは無縁で、文学的に、その作歌のレベルにおいて比肩できるような歌人ではない。
しかし、名もなき庶民の女として、おめず臆せず、女の性のよろこびを見つめた。そういう歌人だったことを記憶すべきだろう。
たった1冊の遺作歌集、『秘帳』は、いみじくも短歌による私小説であった。
(つづく)