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(つづき)
一茶が有名になったのは大正12、3年の頃からだった、という瓢齋の記述は間違いではないだろう。
とすれば、俳人、一茶が知られたのは、たかだか80年前のことになる。もっとずっと前から、一茶の存在が知られていたものとばかり思っていた。

たしかに、一茶は、芭蕉、蕪村などとちがって、生前からひろく知られた俳人ではなかった。明治に入ってからも、一茶の名はひろく知られていたわけではない。

私の好きな一茶の句をあげておこう。

信濃路や 上の上にも 田植唄

わが里は どう霞んでもいびつなり

小林家は、柏原の本通りに面して、間口9間、奥行き4間、大きな藁屋だったという。

これがまあ 終(つい)の住家か 雪五尺

後年、この家を半分に区切って、一茶と、継母、その継母の子(異母弟)仙六が、隣あわせに住んでいた。
これが一茶の実家だが、一茶が亡くなった年に、焼けてしまった。

一茶は生涯、貧窮に苦しんだという。
だが、一茶の父の代には、150俵ほどの収納米があったという。
間口9間、奥行き4間の家屋といえば、かなりの広さだし、150俵ほどの収納米というのば、ただの貧農には考えられない量で、一茶が貧しい農民の出身ではなかったと見ていい。

故郷や 蠅まで人を刺しにけり

信濃路は 山が荷になる 暑さ哉

北アルプスを歩いていた頃、よく、この句を思い出した。ザックの重さが肩に食い込んで、見はろかす山脈(やまなみ)が「荷になる」実感があった。

釋 瓢齋のつまらない随筆を読んだおかげで、しばらく一茶の境遇を思い出すことができた。これだけでもよしとしなければなるまい。